花束書房

幕末→大正期の女性史マガジン■北村兼子研究(復刊)■編集・出版業(準備中)。

【Badass ばあさん列伝】儒教の国の男装医、高場乱(前編)

「高場乱FtM説」の真相は??

 幕末の福岡藩で医家の跡継ぎとして育ち、のちに私塾で頭山満ら藩の「問題児」を教えた高場乱という女性がいた。名前は「たかばおさむ」と読み、残された肖像画にもみられるように男装で通した。養子には自分を「父」と呼ばせ、孫には「祖父」と呼ばせたという乱には、性自認が男であり「FtM」だった、という意見もあるようだけど……?

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 江戸時代の武家の女性は、幕藩体制を強化するために取り入れられた儒教の影響下で暮らしていた。支配層である武家を維持するため、子孫繁栄の責任を負っていたからだ。儒教的な徳目にもとづく『女大学』『女訓書』などの教育書は、やがて諸階層の女性たちの生き方にも作用していった。

 一方で、漢籍、漢詩は武家の男子の領域だったから、これを女子が学問として学ぶことは珍しかった。松平定信(寛政の改革を行った江戸中期の老中)が、著書『修身録』に書いた次のフレーズは有名だ。

「女はすべて文盲なるをよしとす、女の才あるは大に害をなす。決して学問などはいらぬものにて、仮名本よむ程ならば、それにてことたるべし。女は和順なることをよしとす」

 ところが、定信は妻・峰子のための教訓書では、少なくとも『四書』『小学』くらいは読んでおくべき、と説いていた。『四書』『小学』は、武士が学んだ漢籍。「女に学問はいらぬ」は武家社会の通念だったが、定信のように家ごとに夫や父の考えで臨機応変に対応していたのだ。

 江戸後期になると、貨幣経済の発展により、豪商・豪農らの間に学問が浸透し、漢詩を専門とする職業詩人が現れ、漢学者、医者の娘ならば詩文を学んでいても珍しくはなくなっていく。幕末期には、著名な漢詩人で歴史家・頼山陽の弟子だった江馬細香や梁川紅蘭、原采蘋らが、詩文の才能で歴史に名を残した。

  そして高場乱もそのひとりだった。乱が生まれ育った福岡藩では、儒教の大家・貝原益軒を輩出している。



「元服」して男児として育った娘


 高場乱は天保2(1831)年生まれ。いわゆる幕末の志士と同世代だ。

 藩に仕える眼科医・高場正山(たかば せいざん)と後妻スガの末子として生まれた。正山と先妻との間には男子・義一があり、スガとの間には6人の子がいたが、いずれも夭折したため、乱が跡継ぎとして育てられることに。幼名は男児の名である「養命」、通称は「小刀(しょうとう)」といった。10歳で藩に届け出て正式に元服、普段の男装姿も公式に認められていた。

 このように、医者や学者の家では女児が跡継ぎとして男装で暮らすことはあった。当時は身分=職能社会だったから、医者・漢学者など男の仕事をしていく場合、その職業の扮装は自動的に男装になるということだ。乱が男装して男そのものとして振舞っていたからといって、「FtMなのか」ということにはならない。

 当時は、家名・家産・家業を継いでいく「家」が社会の基盤として大事な意味を持っていた。なかでも重視された家業は、血筋を絶やさないことよりも養子をとってでもそれを継承できる者が選ばれていた。男系・女系にこだわらず、より近い血縁者が選ばれる場合もあれば、家業に必要な資質や能力を求めて男子を婿に迎えることも珍しくなかったのだ。商家や医家、学者の家はとりわけ資質や能力を重視した。ちなみに、乱は16歳の頃に結婚したが、まもなく自分の意志で離縁し、その後は婿を迎えていない。

 乱は跡継ぎとして、父から漢学の手ほどきを受け、剣術や柔術、礼儀作法なども高名な師範について学び、英才ぶりを早くから発揮。往診に出るようになると、馬や牛に乗った。

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