花束書房

幕末→大正期の女性史マガジン■北村兼子研究(復刊)■編集・出版業(準備中)。

【Badass ばあさん列伝】儒教の国の男装詩人、高場乱(後編)

スカした男に放屁で返事


 「人参畑の婆さん、高場乱先生は、実に変わった豪傑じゃった。無欲、恬淡、至誠、

 豪快の先生じゃった」(頭山満『英雄を語る』時代社)

 これは、高場乱が維新後に開いた私塾「興志塾」で学んだ頭山満の回想。塾は福岡藩の薬用人参畑の跡地にあったことから、頭山の回想にあるように「人参畑」塾とも呼ばれていた。乱が若いころに学んだ亀井塾と同じく型にはまらない方針をモットーとして、青年たちの育成にうちこむようになる。

 頭山らの回想によると、乱は虚弱体質で体つきも華奢だったが、性格はきわめて豪胆でおおらか、肝が太い人だったそうだ。乱の人柄への安心感からか、乱の塾にはなぜか荒っぽく意気軒高な若者ばかりが集ってきて、世間からは「梁山泊」「腕白塾」などと言われた。

 塾が良くも悪くも活性化したのも、のちに政治結社「玄洋社」を立ち上げる頭山満らが入ってきてからのことだった。当時17歳の頭山は目の治療のために訪れた(乱は眼科医)が、そこで見た塾生たちに魅了され、居座るようにして塾に入り、リーダーのようになっていった。

 頭山らが、激論の末に取っ組みあいのケンカに発展するのは日常の光景となり、佐賀の乱に刺激されて大騒ぎになったときには、かけつけた乱が頭山の背中に飛び乗り、「およしない!」と叫んだとか。

 明治8(1875)年には、土佐の政治結社・立志社の青年が訪ねてきて、乱を相手に政府批判をひとくさり述べた。乱はせしゃべらせるだけしゃべらせると、大きな放屁を一発お見舞いしたという。まさに豪傑である。

 頭山は、乱の身なりについても書き残している。小倉袴を愛用し、帯も白木綿の兵児帯をぐるぐる巻きにして無造作に締め、医師の髪型である茶筅髷――と、完全な男装だった。雨が降ると傘をささずに粗末な「タノノバッチョ」(福岡の方言で三度笠)をかぶり、「のそのそ歩いた」そうだ。

 もっとも、社会的に男として生きることの苦労がなかったわけではない。体つきが華奢だったので、男装をしていてもすぐに女性とわかってしまい、中傷を受けることも少なくなかった。中年になってもそうしたことは続いた。

 教育に専念するようになって、乱の心を支えたのは、「百年の計をなそう」という強い意志。管子の「百年の計は人を養うにあり」に感化され、これを意志の力にしていたようだ。心に芯があれば、つまらない中傷で削られることがあっても、自分を失わずにすむものだろう。



「開化」としての男色禁止令

 乱の塾では、「恋童を禁ず」という男色に関する規則があった。新選組でもいっとき問題視されて似た規則があったが、今の感覚でいうと「恋愛にばかりかまけていてはいけない」というニュアンスがあるだろうか。当時の男色は現代の同性愛とは別の概念である。

 衆道には、絆を示すために太ももに刃を突き立てるといった荒っぽい習慣があったので、乱が禁止したのも、男色によって刃傷沙汰を防ぐためでもあったらしい。かつての日本では、現代とは真逆に、若い男性の夜間ひとり歩きが危険視されることもあった。

 明治初期の東京で男色が流行したことがあった。これは、幕府が瓦解し、男色がさかんだった鹿児島出身者が東京に増えたためで、1873年に男色を「犯罪」として取り締まる法律ができた(違式詿違条例といいます)。欧化政策のひとつとして、男色や刺青、異性装など江戸時代の文化風俗を欧米文化に即したものへと矯正していくための軽犯罪法だ。だから、乱の塾の男色禁止令とは意味がちがう。

 明治時代、男女別学になったのは、「望ましい男性性・女性性」へと国家が矯正していく過程でもあった。徹底したジェンダー化教育が進むと、本来の自分を隠したり、本来の性自認を押し殺したりして生きる人が増えていったことも想像できる。そういう人たちは、庇護されるか、昭和の「男装の麗人」のように芸能の世界で活躍するか……居場所が限定されていったはずだ。とはいえ、芸能の世界でも性自認を社会的に受け入れられた人がいたというわけではないけれど……


弟子たちの痛みを引き受ける


 幕末の福岡藩は、各国の志士と交流する勤王家を輩出したが、最終的には藩の弾圧によって多くが命を失っている。人材を活かせないまま明治になり、旧士族らがくすぶり続けるなか、明治10(1877)年、福岡の変(新政府に対する武力蜂起)が起きる。頭山ら乱の教え子たちが首謀者だった。そのころ、47歳になっていた乱も連座して拘束されたが、官憲を理論でやり込めて釈放されている。相変わらず豪胆なところが痛快だ。

 事件では500人近くが拘束され、町からは血気盛んな青年が姿を消した。やがて頭山らは分裂を経て先鋭化していき、自由民権運動などに身を投じていった。

 薩長閥政府に対する嫉妬と憎悪をエネルギーとしたかのような彼らの動きは、乱を苦しめた。弟子のひとりである来島恒喜が、大隈重信の暗殺を企てた果てに自殺したときには、とくに衝撃を受けたようだ。来島の行動を評した乱の書簡には、「あまりに青く、思慮深さに欠ける」といった言葉が冷静に綴られている。

 父が「乱れをおさめる」との願いを込めて名づけた名を背負い、能力ゆえに家を託され、男として生きてきた乱にとって、人材育成は「百年の計」と後半生をかけた希望の道だった。その志半ばで弟子たちがひとりずつ命を落としていくことは、自分が否定されたような虚しさを味わうことだったのではないだろうか。

 来島の死の翌年、乱は病に倒れた。そして、青年たちの葛藤や焦燥をわけあうようにして治療を強く拒み、弟子たちに囲まれて世を去った。

 頭山は乱の人物像を「無欲と親切意外に持ち合わせのない」とも表現している。乱は人を見守り、育てることに後半生をかけたから、この頭山の言葉は乱の本質をついているのかもしれない。結婚・出産からそれた乱は、学問を通じた人材育成に「慈愛」を注いだ。それだけに打ち込もうとした澄みきった志が、「無欲と親切」として言動に現れたように思える。

 頭山の回想など塾の関係者の言葉を追うと、彼らは乱の豪傑ぶり、ニュートラルさ、学識など、乱の人柄・精神そのものに惹かれていたように思えてならない。つまり、学者として生きてきた乱の個性を、自然なこととして受け止めていたということだ。

***

 乱は、さまざまな葛藤や偏見と格闘しながら自尊心を守り抜き、幅のある思考を獲得していったのだろう。頭山ら問題児が乱を女性だからとあなどらなかったのは、底抜けの慈愛の背景に、乱の意志の力と、世間体から自由であろうとした精神を見て敬ったからではないだろうか。

 「生まれたときの性は女性だが男として生きている」ということを、現代人はまず特異なこととして受け止めてしまいがちだけど、社会的に男として生きることは、乱を形作った要素のひとつにすぎない。



※違式詿違条例により男装をとがめられる芸者を描いた錦絵。

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