花束書房

幕末→大正期の女性史マガジン■北村兼子研究(復刊)■編集・出版業(準備中)。

男の領域で女性であることに泣き笑いした原采蘋――1/3

前に家を継ぐために男装をしていた福岡藩医・高場乱(たかばおさむ)について書いたが、秋月藩(支藩)にいた漢詩人の原采蘋(はらさいひん)も、乱と似た事情で家を継ぐため男装していた。漢学者の家に生まれ、彼女もまた、家名再興を託されるほどの頭脳の持ち主だった。



「男装詩人」「女流」の足かせ

乱と采蘋は20歳の頃、ともに亀井昭陽の儒学塾で学んだ仲。「学は民生にあり」を掲げる亀井塾は、身分や性別を問わず生徒を受け入れ、女性も珍しくはなかった。儒学の塾でありながら、その規範を押しつけず、塾生の才能を偏見なく伸ばすことを目指し、学説や学統を世襲することを批判するなど、風通しがいいことでも知られていた。

女大学的指向が強かったと思われがちな福岡で、乱と采蘋、昭陽の娘・亀井少琴は、「三女傑」と称されるほどの才能を発揮。彼女たちを縛ることのない塾の空気が幸いしたのだろう。

采蘋はこうした環境で才能をのばし、同時代の男性と肩を並べ、男性の領域である漢詩において名声を得るようになり、旅へ出るようになると「男装の詩人」と呼ばれたとの話も伝わっている。もっとも、漢学者としての道のりは、師でもあった父の遺言の通りに家を再興するという険しいものだった。若くして才能を評価された少女時代から、強烈な孝に殉じた後半生を送るなかで、女性であることの葛藤も持ち続け、矛盾に苦しんだ。



「一世の女奕楸なり」――謎の女棋士・阿源にエンパワメントされる

采蘋が深く敬意をはらった女性がいる。阿源という囲碁で身を立てた女性だ。采蘋が江戸遊学を切り上げて故郷へ戻ろうとするころに出会った。

この阿源という女性、詳しいことはわかっていない(ご存知のかたがいらしたらご教示ください)。采蘋によると「一世の女奕楸なり」――稀代の囲碁打ち、だそうで、男子でも右に出る者がいないと評されたらしい。

采蘋も漢詩の集まりがあれば、居並ぶ男性詩人を圧倒したから、自分と似たところもある阿源に好意を持ったのかもしれない。家業再興を果たすまでは結婚もしないとの決意をときに非難されてきた采蘋にとって、男の世界で名を成した阿源は同志であり、戦友のような存在だったのだろう。少ない同志に出会うとき、人は自らを祝福されたような思いを味わうものだ。

しかも采蘋は、酒豪でよくしゃべる人で、女大学的なタイプではなかった。そんな姿に眉をひそめる者もいたが、阿源に出会ったころ(30歳すぎ)には、他人に笑われようと罵られようと自分の価値が損なわることはないのだ、というところに達していたのかもしれない。儒学的な世界への理想と矛盾こそが、彼女の個性だった。

秋月城址に建つ、いい感じの校舎の中学校

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