花束書房

幕末→大正期の女性史マガジン■北村兼子研究(復刊)■編集・出版業(準備中)。

男の領域で女性であることに泣き笑いした原采蘋――2/3

積極的な中国人女性、家父に遠慮する日本人女性

采蘋には、5歳上の兄・瑛太郎、4歳下の弟・謹次郎がいた。父の原古処が藩で重用されていたことから、その名声を慕って藩外からも塾生が集まっていた。塾生たちに「采蘋さま」と呼ばれていた采蘋も、兄や弟たちと机を並べて儒学の経典を学んだとされる。


采蘋が家学を継ぐことになったのは、兄たちが病弱で家督相続が難しくなり、采蘋の養子縁組も成立しなかったため。采蘋は修行もかね、20歳になる前には九州各地や山陽地方へ遊学していた。福岡藩が長崎警備の任務にあたっていた関係で、古処が藩主に従って長崎へ行った折には采蘋も同行し、そこで有望な若き漢詩人として名が知られるようになる。


采蘋や亀井少琴のような女性漢詩人が九州に現れたのは、長崎から清国の漢詩が入ってきた影響が大きかった。なかでも、高名な詩人・袁枚の多くの女弟子たちの詩集が入ってきたことは日本の漢詩人に刺激を与え、采蘋らすぐれた女漢詩人を生んだのである。


儒教の規範が厳しい清国で、袁枚が50人以上の女弟子を抱えるに至ったわけは、元末期の文人・揚維楨の言葉にあった。楊は、『詩経』を例にとりながら、「女性の才能は男性に劣らない」という見解を主張していた。当時、揚は文人として強い影響力を持っていたので、この言葉が女性の才覚を評価する決まり文句として定着したのだ。


袁枚も揚に感化されて女性に詩作を勧めるようになった。もっとも、袁枚自身が祖母から教育を受けるなど、女性たちの教養が高い家系に育っていたから、楊の言葉を経験によって共感していたのだと思う。彼が育った地域は文化水準が高く、女性が詩作や芸術、学問に親しむ環境がそろっていたようだ。



🌸「出過ぎないように」力を隠した女性たち

江戸時代の儒学者、武家一般にとって「外国」といえば中国であり、学問の先端として手本にしていたから、袁枚に影響される者は少なくなかった。ただ、日本の女性漢詩人の場合、袁枚の女弟子たちのように自らの詩集を出すことは「だいそれたこと」と考えていた。江馬細香も、師の頼山陽に詩集の出版を勧められたが、「女の身では僭越にすぎる」と断っている。中国の女性たちには主体性と積極性が強かったいっぽうで、日本の女性には従属的な考えが根強く、自己主張なんてもってのほかだった


高い教養を得る機会があった豪商や豪農の娘でも、父親の教えによって世間体を気にして漢学を避ける例が少なくなかった。だから、上記のように出過ぎない心がけは常識だったのだろう。


幕末の志士たちの間でもよく知られた広瀬淡窓の私塾「咸宜園(豊後国・日田)」にも、采蘋は父の供でたびたび訪れている。淡窓は23歳のときの采蘋の印象を「幼より読書文芸を学び、もっとも詩に長ぜり。其行事磊々落々(細かいことにこだわらない)として、男子に異ならず。またよく豪飲せり」と『懐旧楼筆記』に記している。


この頃にはすでに才媛として知れわたり、男ばかりの九州詩壇で活躍し始めていたようだ。漢詩人として身を立てる決意を表した立志の詩も残っている。立志、功名心というのは当時の女性にしては珍しいが、父兄のために家学を盛り立てたい、という儒教的な信念によるものだと思う。彼女の人生にはつねに、根底に強い忠孝の心があったから。


父の死後は頼山陽や梁川星巌、佐藤一斎、広瀬淡窓らに師事、交流してさらに評価されるようになった。いずれも、幕末の志士たちに大人気のスター学者たちである。


頼山陽。著書『日本外史』が幕末、ベストセラーに

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