花束書房

幕末→大正期の女性史マガジン■北村兼子研究(復刊)■編集・出版業(準備中)。

男の領域で女性であることに泣き笑いした原采蘋――3/3

男の世界で生きる葛藤

やがて、さらに修行を積むため江戸へ出た。年齢が30歳に達していたことから「諸葛孔明におくれをとったことが恥ずかしい」と、のちにこのときの意気込みを振り返っている。こうした、当時としては男性的な思考も、漢学・漢詩という男の世界に育った影響だろうか。

采蘋は江戸で20年も活躍し、関東各地を遊歴した。江戸で庶民文化が爛熟期を迎え、多くの文人が花盛りの時期だ。女性も寺子屋師匠や商いの道で身を立て、女中奉公が職業として成立していた。采蘋も漢詩人としての名声は得たが、どこか満足していないような言葉を残している。商業的な才覚はなく不器用で偏狭なところもあったといわれ、それゆえの葛藤かもしれない。

彼女の心の揺れは、山陽遊学を振り返った記述にも出ている。書いたのは、江戸に暮らし始めて14年が過ぎたころのこと。――「悲しいかな、世に生まれて女となる。千里独行、豈に容易ならんや。初めて東遊するや、聞く者皆冷笑す。女侠の流を学ぶを以てなすと……」。

父の期待を受け、それを実現する自信と野心にあふれていた采蘋だが、女性の身で漢詩の修行をすることへの迷いもあった。世間からの視線も突き刺さる。才能が高まるほどに、両親への忠孝と女であることの意識は鋭くなった。本心に正直でいようとするほどに、矛盾に苦しむ日々だったに違いない。

「女に生まるに言うを休めよ奇とするに足らずと。慰情は他日、男児に勝る」との詩も残している。「女子が生まれたからといって、がっかりすることはない」と、女性を祝福する気持ちを詠んだ詩だ。それは、「自分が男児だったら父は喜んだはずだ」という自己否定の気持ちを抱き留めてきたからこそ表現できた、自己肯定の言葉である。


「悲しい哉、世に生まれて女となる」

采蘋が故郷で大きな影響を受けた女性がいる。福岡の儒学の大家・貝原益軒の妻、東軒だ。東軒は夫を師として多くを学んだ結果、和歌や諸芸に才能を発揮し、益軒の著述を助けた。同じ秋月城下に生まれたこともあり、采蘋は彼女の「内助の功」に憧れ、理想とした。東軒は、采蘋が生まれる85年前に世を去っていたが、彼女の才能や夫婦像は語り伝えられていたという。

やがて故郷へ戻ると、母と離れて暮らしてきたことへの非難は、やはり世間から聞こえてきた。じつは采蘋は、老いた母を江戸に呼び寄せる申請を藩にしばしば出していたが、認められなかった。だから、こうしたとき、「悲しい哉。世に生まれて女となる」といった葛藤が思い出されたのかもしれない。

采蘋が選んで歩んできた道は、女性だから非難されたのであり、男性であれば立身出世として称賛されたに違いないからだ。

帰郷後、自ら蚕を飼って紡いだ糸で母に綿入れを贈ったとき、これを知った秋月藩から倹約令の建前でとがめられた。すると采蘋は、「自分で綿を作り、老いた親のために孝行として行ったこと。老いた人に綿を着せるのは古来の道であり、決して奢侈贅沢とはいえない。親への孝行の妨げにもなりません」と答えたという。高場乱と同じように、儒学にのっとった言葉で役人をやりこめたのだ。

母の死後は墓所の整理を済ませると、九州をめぐる旅に出た。阿蘇山に登り、飲み過ぎて階段から転げ落ちるなど、羽目を外して好きなことを楽しんだという。薩摩で見聞したことなどから、アヘン戦争など政治にも関心を寄せた。儒学をおさめ、多くの学者・文人と交流した彼女にとってごく当たり前のことだった。もし采蘋が男だったら、こうした言動も「志士」として残っただろうか。

晩年の旅行記からは、自らの境遇を認め、孝の縛りからも解放されて、本来のおおらかな自分に戻ったことがうかがえるという。


参考文献:

小谷喜久江『遊歴の漢詩人原采蘋の生涯と詩―孝と自我の狭間で―』

福島理子『女流 江馬細香 原采蘋 梁川紅蘭』岩波書店


貝原益軒。女子向けの教育書も出している

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