花束書房

幕末→大正期の女性史マガジン■北村兼子研究(復刊)■編集・出版業(準備中)。

【史跡・女医】頭山満を診た高場乱、吉村寅太郎を診た榎本住

「女医はいやだ」という現代のおじさんたちと、性別抜きで女医を敬った200年前の男性たち

東京医科大学が女子受験者の点数を不当に一律減点していた事実は、世界中で驚きと軽侮をもって報道されています。たとえば米ワシントンポスト紙は、他の大学の医学部でも同様の不正があったこと、それが女医の比率の低さ(約2割)につながってしまっていることを、社会全体の女性差別の根深さまで含めて伝えました。

いっぽう、日本の週刊誌・週刊現代が、2018.9/22.29日号で「女性医師を増やすのは国民にとって幸せか 女性医師の手術はいやだ」という記事を掲載していました。

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熱烈な教育者としても名を残した男装の女医(眼科)・高場乱(たかば おさむ)が、のちに国家主義に傾倒する玄洋社メンバーをはじめ、多くの患者から尊敬を集めたことは、前に記事にしました

今回はもうひとり、同じ江戸後期にいきた榎本住(えのもと すみ)という女医を紹介します。日本初の女医としても知られる名医(ゴッドハンド)です。

住が生まれたのは高場乱より15年前、文化13(1816)年の大和国葛上郡戸毛村(現在の奈良県御所市戸毛)。彼女の父・榎本玄丈も名医として知られ、住は長女として早くから医術の手ほどきを受け、勉学にも励みました。

やがて住は、近郷の人々から「神のごとし」と称えられるほどの医術を身につけ、彼女にみてもらえば間違いない、と評判を呼ぶまでになります。いくらすぐれた才能を持っていても女性だとなかなか歴史には名を残せないものですが、住の場合、ある人物を治療したことで後世に伝えられることになったのです。

住が治療した人物とは、幕末、大和国で挙兵した過激尊攘派「天誅組」の吉村寅太郎(土佐脱藩浪士)。天誅組は武力倒幕のさきがけともいわれる「天誅組の変」を起こすも高取藩兵に撃退され敗走し、寅太郎は銃撃を受けてしまいます。

寅太郎を担いで応急処置ができる医師を探し回った浪士らがようく見つけたのが住でした。急ぎ治療をほどこしてもらうとまもなく行軍を再開しましたが、傷が深かったのか体調が悪化し、駕籠に乗っているところを追手にみつかり射殺されてしまいます。


日本初の女医

ふだんの住は、いわゆる「女大学」的なタイプではなく、口調も荒っぽく、はっきりとものをいう人物だったようです。しかし、診療はきわめて緻密で懇切丁寧、往診に向かう駕籠には小さな机を設置して勉強に励むという熱心さで医道に向かっていたと伝えられます。晩年、肺炎にかかり床に臥すようになっても、患者の求めがあれば、付き添いの者におんぶをしてもらって往診に駆けつけたという話も残っております。彼女の最期は、往診から戻り、家に落ち着いたときだったとか。

まさに「医は仁術」を地で行く人生だったので、村人たちは住を称える記念碑を、なんと生前に建てています

志を捨てずに医術で評価された女医は、いつの時代にもいます。高場乱も榎本住も、その技術はもちろん、人柄、心映えまで含めて、周囲の人々の尊敬を集めた女医です。

偏見に基づく女性蔑視だけで「女医はいらない」と駄々をこねる現代のおじさんより、大昔の人々のほうがよほど物事の道理を理解していると思えてなりません。



福岡市駅前4丁目。高場乱の私塾(通称・人参畑塾)の石碑

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