花束書房

幕末→大正期の女性史マガジン■北村兼子研究(復刊)■編集・出版業(準備中)。

【Badass ばあさん列伝2】土佐民権婆さん


民権ばあさんa.k.a楠瀬喜多(くすのせ きた)


いま話題の「badass grandma」――タフでヤバいばあさんが大好きです。

そういうばあさんの話だとだいたい欧米の映画や巷の名物婆さんがニュースになったりしますが、もちろん日本にもいます(自撮りばあちゃんでおなじみ西本喜美子さんとか)。

私は、女性史からロールモデルを発掘して広めたいと思っているので、ここでは昔の日本からBadassな婆を紹介していきます(ちなみに前回紹介した1人目は、「男」として家を継いだ高場乱)。


世界で2番目に女性参政権が実現した土佐

明治10年前後から、国会開設や選挙権獲得などをもとめる自由民権運動がもりあがるなか、各地の政談演説には女性の姿も見られるようになります。


板垣退助ら民権運動の先駆者を多く輩出した高知では、ラディカルな女性活動家も現れます。それが、のちに「民権ばあさん」と呼ばれるようになる楠瀬喜多でした。当時、42歳


喜多は21歳で結婚した楠瀬実(元・土佐藩剣術指南)と38歳で死別し、子もなかったのでそのときは戸主になっていました。


明治11(1878)年、喜多は「戸主として納税もしているのに女性だからといって選挙権がないのはおかしい」「選挙権を認められないなら納税はしないッ」と抗議。当時の選挙資格は「満20歳以上の男子で、その郡区内に本籍があり地租5円以上を納める者」でした。

県は「規則に反する」として訴えを退けたので、喜多は続いて内務省にまで訴え出ます。これは、婦人参政権運動に関する初の実力行使として、全国紙でもおおいに報じられました。(高知市上町1丁目の第四小学校前には、「婦人参政権発祥の地」の石碑がたっています)


2年後の明治13(1880)年。町会の抗議活動に県が折れ、喜多の主張が通って日本初の女性参政権を認める法令が出たのです。その後、隣村でも同様の法令が実現。当時、女性の参政権を認めていたのは世界でもアメリカ・ワイオミング州議会だけだったので、じつに世界で2番目でした。


民権家のなかでただひとり、男女普通選挙を訴えていた土佐の植木枝盛は興奮して「男女同権は海南の某一隅より始ル」と語っています(『高知新聞』1881.8.31付)


ところが4年後、政府は区町村会法を改訂して婦人は町村会議員選挙から排除。わずか4年の婦人参政権でした。


ちなみに「民権ばあさん」のあだ名がついたのは喜多が46歳のときだったそうです……


喜多は天保7年生まれで、いわゆる幕末の志士と同世代。

結婚すると剣術師範だった夫について剣術・薙刀を習い、日根野兵太のもとに通って鎖鎌も身につけるなど、まさにBadass、元祖はちきんといえる人でした。


その後は、各地から集まる活動家を迎え入れたり、上京したり、盲唖学校を設立しようと奔走して失敗したりして元気に過ごしました。

大正デモクラシーまっただなかの大正9年、84歳で死去。晩年は、高場乱(=Badass ばあさん)が鍛えた頭山満とも交流しました。



楠瀬喜多(晩年)と鎖鎌(イメージです)

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