花束書房

幕末→大正期の女性史マガジン■北村兼子研究(復刊)■編集・出版業(準備中)。

「お許しください」 結婚式から逃げ出し医師になった宇良田唯(うらた ただ)

 結婚式当日に置手紙を残し、逃出す――。

 そんなドラマみたいな話、実際にもあるようですが、あくまでも現代でのこと。親が決めた相手と結婚するのが普通だった明治の女性がやってのけたとしたらどう思いますか? しかも、理由が「私はよそに出て、もっともっと勉強がしたい」だったら?



*この支配からの卒業

 その女性とは、明治6(1890)年に熊本県・牛深に生まれた宇良田唯(うらた ただ)。日本人女性では初めて、ドイツで医学博士の学位を取得した人物である。


 唯は幼いころから聡明で活発、「男の子みたい」と言われて育った。成人してからは165㎝の高身長に大股で歩き、ますます「男の子みたい」に。医学生時代は男装がハマっていて、人力車の車夫に「旦那、どちらまで?」と言われると喜んだという話が残っている。


  18歳で決まった縁談の相手は同じ土地の豪商の若旦那。当時としては申しぶんのない「女の幸せ」だった。


 唯の出奔については「結婚後」説もある。といっても、結婚して3ヵ月もたたない時期だったそうなので、結婚が嫌で(すぐに)逃出した、というのは事実のようだ。逃げ出した唯は嫁ぎ先に連れ戻されてしまうが、またすぐに飛び出して、親戚の「吉田毒消本舗」に居ついてしまった。



*猛スピードで医師免許取得→さらに学びたいと海を渡る

 唯が医師(学問)を志したのは、漢方医であり、自由民権運動にも尽くした父・玄彰の影響が大きい。父の応援のもと、唯は破竹の勢いで医学の道を進んでいく。

 まずは熊本薬学校を卒業すると、そのまま薬剤師としての試験を突破、明治27(1894)年には正規の薬剤師として登録された。その後は父と薬局を開くも医師の夢をあきらめられず、上京して「済生学舎」に入学。修了予定は3年だったが、驚異的な努力によって1年半で学問を修め、明治32年に医師免許を取得した。毎晩、縦半分に折った布団で眠りにつき、寝返りを打って畳で目が覚めるとそのまま勉強する、という日々を送ってきたそうだ。

 唯はその後、細菌学者・北里柴三郎に師事、故郷へもどり1年半ほど開業。しかし、医学をさらに究めたいという思いやみがたく、ドイツに留学するため、再上京して英語とドイツ語の勉強を、独学で始めた。

   当時はドイツでも女性を入学させる大学は多くはなかったが、北里の紹介もあり、マールブルク大学に入ることが決まる。唯は29歳になっていた。


 外へ出て、広い世界を見て、思いきり勉強がしたいーー。その願いが叶うまでに、男子の倍の月日を要したことになる。それも、社会的・経済的に優位な男性からの理解と支援がなければ難しかったことだ。その条件がそろったとしても、当時の女性は生家で・嫁先で・学校で、男性たちからの猛烈な妨害・バッシングを逃れられない。そして、そうした道のりは、歴史に名を残したひとつまみの女性たちの「スタンダード」だった。



*日本人女性で初めて「医学博士」に

 ドイツで学び始めてから2年。33歳になった唯は「クレーデ点眼液の効果に関する実験的研究」で学位を取得した。女子ゆえ、男子の3倍の試験をこなさなければならなかったというから、ここでも猛勉強したに違いない。

 また、当時の日本では男子にしか学位が与えられなかったので、海外での取得とはいえ、日本人女性で初めてということになる。国内初の学位取得者として知られる宮川庚子も、唯の学位取得から25年後のことだった。

 帰国後は、牛深と東京で何度も開業し、請われて学習院女子部で教師にもなった。東京では北里の門下生で薬剤師の中村常三郎と39歳で結婚。常三郎と二人三脚で人々を救う第二の人生が幕を開ける。舞台は満州。国内での医療活動よりも長く、20年におよんだ。

 夫と天津で開業した「同仁医院」は、眼科・産婦人科・内科・小児科も診察し、英語とドイツ語、新たに学んだ中国語を使って診療にあたった。病院は患者であふれたが、ふたりは貧しい人から治療費をとらなかったので、慎ましく多忙な日々が続いたそうだ。


 唯がドイツから帰国したとき、牛深の人たちは港で船団を組み出迎えたといわれ、故郷では偉人として知られてきた。平成28(2006)年には唯の顕彰碑が建てられ、最近では生家跡を残そうとの動きが起こっているそうです。

 女医の先駆者としては楠本イネ、荻野吟子、吉岡弥生あたりが知られているけれど(といっても、世間的には知らない人のほうが多いかも…)、宇良田唯ももっと知られていい人物。荻野吟子や楠本イネのように小説になったりすれば、もっと陽が当たると思うので、どなたかお願いします(私の朝ドラにしてほしい人リストに入っています)。


 唯が自分の人生を自分でやれたのは、確かにまわりの理解という幸運も重なってはいたけれど、やはり一番は彼女の勇気があってこそ。自分の本心をまもるのだという心映えが声となり、言葉をうみ、人を動かし、海を渡らせたのだと思っています。



マールブルク大学

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