花束書房

幕末→大正期の女性史マガジン■北村兼子研究(復刊)■編集・出版業(準備中)。

隻眼の農学博士、丹下ウメ


*『西郷どん』に描かれない薩摩おごじょの帝大生


 鹿児島はいまなお男尊女卑が根強いと指摘されますが、その要因のひとつが「武士の国」ならではの精神的風土でしょうか。明治政府で薩摩閥は海軍を形成したことから、出世するには軍人か政治家でなければ、といった風潮があり(長州でも似たようなものだと思う)、古くから薩摩では自然科学が育ちにくい、などともいわれてきました。

 そんな鹿児島で、化学者として大成した丹下ウメという女性がいます。鹿児島のデパート「山形屋」の入り口には、彼女の銅像が建っています。

 ウメは、ビタミンなど栄養学を専攻した日本人女性でふたりめの農学博士。女子初の帝大生としても知られる人物です。鹿児島は明治維新の拠点なので銅像が多いのですが、陸軍大将・西郷どんをはじめ、やはり軍人軍人政治家軍人軍人政治家軍人……ばかり。だから、山形屋のウメの銅像は、女性であるうえに学位帽をかぶった姿で、とても珍しいのです。

 ちなみに江戸時代、日本列島で武士の比率は全体で数%。各藩でも5~8%ていどでしたが、薩摩はおよそ38%にも達していました。やはり武士の国ならではの文化風土が女性の生き方にも影響をおよぼしてきたのでは?と思います。


*日本初の女子帝大生

 ウメが生まれたのは、西郷隆盛が下野した明治6年。家が裕福(豪商でした)で、父親が娘の教育に理解があり…という、歴史に名を残した当時の女性として、「条件がそろって」いました。経済力と親の理解がなくては道が閉ざされるのは、今も昔も同じです。

 ウメの場合、3歳の折に事故で右目を失明してしまったことが、さらに周囲からの助けを手厚いものにしたようです。事故のとき、一緒に遊んでいた姉の花が責任に苦しみ、「ウメちゃんをよか学者にしてもんで」と母に伝え、生涯にわたりウメの支えとなるのです。

 幼少時から秀才ぶりを発揮していたウメは、小学校卒業後、師範学校にいわゆる飛び級で入学。年長者を抑えて最高点だったそうです。同校を首席で卒業すると、県内の学校で29歳まで10年間、教師として勤めあげました。

 ただ、同じころ家業が傾き、丹下家は屋敷地を手ばなすことに。本来ならばここでウメも結婚をして地方教員として人生を終えたはずですが、彼女の優秀さを見抜き、支援する男性たちが現れます。朝ドラ『あさが来た』に出ていた日本女子大学・成瀬仁蔵校長ほか、社会的地位が高く女子教育に理解のある人ばかりでした。

 ウメは彼らの支援を得て、文部省の中等科学教員検定試験に合格(全国選抜45人中6名)。これにより女子も大学に入学させるべきだという声があがるようになり、今度は新設される東北帝国大学理科大学に3名の女子が選ばれます。そのひとりがウメでした。

 東北帝大に入ったときのウメは41歳。経済力に恵まれ周囲の男性の支援もあり、人一倍努力しても、普通の男性よりははるかに成就する年齢が高いというのも、当時のスタンダードでした。

 やがてウメはアメリカに9年間留学(49歳)。論文「ステロール類の化合物について」で日本女性初の学位を受けたのは、55歳のとき。帰国後も研究をつづけ、東京帝大から「ビタミンB2複合体の研究」で農学博士の学位を受けたのは68歳のときです。日米で学位を得たウメは以降、日本女子大で79歳まで教壇に立ちました。


 学びに生きた孤高の人生。そういうと聞こえはいいですが、やりたいことに向かう場合、多くの女性とおなじく、ウメはプライベート(家庭)をあきらめざるを得ませんでした。男性の場合、家庭はかならず「用意」されるのに、です。

 東北帝大に在学中、両親は死去。母の死に目にはあえませんでした。そして、長く心のよりどころだった姉さんの花は、昭和20年、鹿児島空襲の犠牲になっています。


 夫も子もなく、家ももたなかったウメは、戦後、ひとりぼっちになりました。

 晩年は東京のいとこの息子の家に身を寄せたそうですが、ウメの人生の半分は影が濃く感じられます。「閑古鳥 呼べば答える ものながら」――他界する4年前、日本女子大学を去る名残惜しさを詠んだ句にも、寂しさが漂います。


79歳まで教鞭をとった日本女子大学HP↓

日本女子大学「リケジョのパイオニア丹下ウメ ~日米で学位を取得した女性科学者~」




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