花束書房

幕末→大正期の女性史マガジン■北村兼子研究(復刊)■編集・出版業(準備中)。

囲碁界のモダンガール・喜多文子

昭和初期、中国から来日した際には「天才少年」と騒がれ、のちに「昭和の棋聖」と称された呉清源(ご せいげん)は、日本棋院の設立にあたり喜多文子(女流棋士)が果たした功績を高く評価しました。

日本棋院というのは、囲碁の棋士を登録・管理し、棋戦を行なう団体。呉清源は、日本棋院には男性の(権威的)棋士の銅像はあるが、文子の銅像がないことを非難して「日本棋院の怠慢だ」と言っています。文子は近代の棋界に重要な役割を果たしながら、男性たちの影に隠れて評価されていないということです。

広岡浅子が大同生命の設立に力を尽くしたことは朝ドラで知られるようになり、2018年、同社に浅子の銅像が建ちました。日本棋院に文子の銅像がないことは、浅子の例と似ているかもしれません。

ちなみに浅子は文子の支援者であり、しばしば対局を楽しんだ仲でした。文子も浅子のようにおもしろい話をいろいろ持った人で、夢野久作も文子の伝記を書こうとしていたほど(遺作)



*11歳、丸坊主・男装で修行の道へ

喜多文子は、日本棋院の設立に大きく関与したり女流棋士を育成したりと近代囲碁界の功労者なのに、知名度はいまいち。人の束縛を嫌う強烈な個性、囲碁で発揮された才気、争いにあけくれる男たちをまとめた人間的魅力……その人柄や足取りを知ると、呉清源がいったように、あまりに評価が低いのでは?と思ってしまう(銅像を建てるだけが功績を認める手段とは思わないけれど)。

文子もまた、明治うまれの女性先駆者たちの多くがそうだったように、伸び盛りの若い時期を家のために過ごさざるをえず(結婚・婚家の再興)、大きなハンデを抱えながらも自分の選択をまっとうした人物です。

11歳で丸坊主、男装に身を固め、方円社(明治時代にできた囲碁の組織)に通い始めて15歳で初段になるも、19歳で能楽師・喜多六平太(喜多流14代)と結婚。夫のすすめで棋界に返り咲いたのは、13年後のことでした。

復帰後は大きな対局の機会に恵まれ、勘を取り戻した文子は以降、5人抜きを果たすと女流棋士とした初の四段に昇格。36歳でした。本因坊まで迫るかとも思われる勢いで、さらに五段に。幅広い人脈と人望で、アラフォーにして棋界の大物となります(のち七段、死後名誉八段)。


*明治維新と女と囲碁

囲碁というと、いまもなんとなく「おじさん・おじいちゃんの趣味」という印象が強いですが、平安朝の絵巻には女性が碁を打つ姿が描かれていますし、もともと(ハイクラスの)女性も楽しむ娯楽でした。男社会になったのは武家社会のたしなみとされてからで、江戸時代には家康が重視したこともあって家元制度が整備されます。

幕府直属の碁所には四家(本因坊・林・安井・井上)があり、このうち林家の分家の林佐野(はやし さの)が、文子の養母でした。佐野もまた、16歳で入団後四段まで進み、方円社の設立に関わるなど明治棋界で鳴らした女性。「男も及ばぬ知力」を備え「林家の伝統に恥じないだけの品」を持ち、「男であったら」(島本久恵『明治の女性』「能と碁」より)といった称賛を背負いながら、やはり家のために生きた女性でもあります。

ちなみに文子の実父・司馬凌海は幕末の医師(司馬遼太郎『胡蝶の夢』の主人公)。幼い頃から神童と呼ばれ、六か国語を操る語学の秀才で、維新後は教育者に。官吏として出世も遂げますが、41歳で早世してしまったので司馬家は没落、文子は林家に入ったのでした。

司馬凌海・喜多文子とも、その人柄をあらわす際によく「不羈(ふき)」という言葉が使われます。これは、「凡人にははかりしれない、律しきれない鮮やかな個性」「人並外れた才知を持つ」といった意味です。

徳川の瓦解とともに家元制度もなくなりますが、名声だけは残ったので、明治以降の棋士たちは新興実業家や政財界の有力者――頭山満、伊藤博文、犬養毅らの支援を得て生き延びました。

同時に、それまでの家元制度の枠を越えた組織「方円社」が発足。ここも岩崎弥太郎や山縣有朋、井上馨ら政財界の実力者の後援を受けるようになります。文子は、佐野も設立に関わったこの方円社が全盛期にさしかかるなか、修行を始めました。やがて方円社は、免状発行などをめぐって本因坊家と対立するようになり、離合集散、組織改編を経て、大正後期には方円社・中央棋院・裨聖会の三つ巴に。夫の喜多家再興を13年間支え、棋界に復帰していた文子はこのころになると中欧棋院に属していました。

関東大震災の打撃がきっかけとなり、三者は「日本棋院」ひとつにまとまります。このとき、豊富な人脈と交渉力を駆使して男たちのしがらみをほぐし、つなげ、たばねたのが文子でした。そこには女性であることも作用したかもしれませんが、技の世界の暗い妬みを誰よりも知っているからこそ、人の心の底に降りていけたのではないかと思います。そして、文子が男だったなら? この功績は勲章ものだったはず。知名度も格段に上がったのではないでしょうか。



いま、女流棋士を検索すると「かわいい」「美人」とサジェストされて、「あー、……(げんなり)」ってなります。前者は将棋、後者は囲碁が多い。文子のことを、歴史を含めてわりとまじめに書いたブログでもほとんどが容姿に触れており、それをジャッジしていたりして、残念な気持ちに……。

囲碁・将棋界のジェンダー差はたまに聞く議論ですが、こういう価値観があるかぎり女子は門を叩きにくいし、子どもがポジティブにとらえるロールモデルも生まれてこない。脳の差ではなく、その女性軽視が数の差を生んでるのでは、と思います。



余談:写真は『あさが来た』。大隈綾子(右)を演じた松坂慶子は、呉清源の映画では喜多文子を演じています。囲碁つながり。



喜多文子(右。5段のころ)








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