花束書房

幕末→大正期の女性史マガジン■北村兼子研究(復刊)■編集・出版業(準備中)。

【北村兼子】関所争奪リレー 選手としての体験


★大正~昭和初頭、ジャーナリストとして活躍した北村兼子の文章です。雑誌『全関西婦人連合会』(大正14年刊 ※注1)に掲載。

★大阪朝日新聞に勤務して半年。記事は、兼子が同社主催の「関所争奪通信リレー」に参加したときの模様を綴ったもの。よりぬきの記者12人が紅白6人ずつにわかれ、交通機関を利用して関所(通過地点)を経て本社へ戻ることを競うリレーで、アンカーを務めた兼子が目指すは高野山~名刹・壺阪寺(奈良県)。記事の副題は「霊域高野山から名刹壷坂寺へ」。

★プレッシャーに負けそうになったり、番狂わせにあたふたしたり。漢学のたしかな素養を感じる景観の描写は端正であり、同時に22歳新人記者のみずみずしさも感じられます。ただ、前半はマニア向け?なので、いつもの兼子調が読みたい人は、「女人禁制と私」から読んでください。高野山の女人禁制について、僧侶に「女性のあなたは怒ってるんでしょう?」と聞かれた兼子が、返す刀で袈裟懸けに斬っています(僧侶だけに)。



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*前記

 大阪朝日の関所争奪リレーは精鋭記者を各六人ずつ紅白両班に分けて、東は日本アルプスから西は朝鮮まで一府県に容易なところと困難なところと二ヶ所ずつの関所を設けて、そのいずれかの関所を占領して早く本社へ帰りついた方が勝ちとなる規定で、百数十万の読者を熱狂させた、空前の催しであったことは、みなさまご承知のことでありましょう。

 これは平時における記者の演習であって、走行中に朝夕二回一千字の電文をしたためねばならぬうえに、交通機関を機敏に利用してできるだけ短い時間をもって相手の先手を打って、容易な方の関所を早く占領して困難な方を相手に残しておかねばならぬ苦心があります。両本部の作戦計画は苦心惨憺たるものであり、両班十二人の選手が懸命の努力は通信文となって「大阪朝日」を飾りました。その選手の内、私も唯一の女性として紅班の中に加えられた光栄を得ました。

 リレーのスタートをきる当日は非常な雨で、用意してあった紅班の飛行機が飛べなかったことが最初の手違いで、作戦計画がフィルムのように変わって、そのたんびに本部員の顔色は青に赤に黄に紫に、見ていても気の毒なほどでした。私は紅班についていますがために、白班の本部の模様は絶対に知りませんし、お互いに要害堅固に攻防の陣をはり、いやしくも間者の疑いのあるものは一歩も入れしめず、審査委員の用事できた給仕ですら、ノックをさせるくらい厳重なものでありました。したがって、ここに親愛なるしかして尊敬すべきみなさまに白班のことをお伝えすることの出来ないのを非常に残念に思っております。

 山陽道へ予定された私が出発当日になってから突然の模様かえとあって、鞍馬から竹生島、ボーターボートで湖水乗切り、てなことになり、その準備にとりかかると今度は答志島の方へ稼ぎにでることになり何度も何度も変わるので、私は疳をたてて本部へ相談をもちこみに行くと、ここでは不眠不休の悲壮な軍議で、これをみては不服もいえず、どうなとなれと度胸をすえていると、第二走者となるはずの私が、第六走者、すなわちビリの役に回されて、高野と壷坂とを占領することになりました。


*機上から引継

 十日にわたった決戦はジリジリと迫ってきて、白班はもう関所全部を占領して、九州から本社へ帰ればそれでおしまいなのです。しかるにわが班は高野と壷坂との二つの関所が残っているのです。形勢は危うくなってきました。第五今井選手が四国から大阪までいのちがけで一気に飛行機を飛ばして、それが六月三十日の午後二時三十五分に木津川尻へつくはずです。間違ったら、結果は惨敗となることはいうまでもありません。何がどうとあろうとも、これから七時間と三十分の問題となりました。

 紅班本部の僚友たちに送られて数台の自動車で平井第一選手と木津川の波打際にたった私の全身には焦燥の気分がみなぎって、空をながめて手招きしたり、あちらこちら当てもどものう、うろついていたことは自分では気がつきませんでしたが、あとで活動写真を見てその落ちつきのない態度には自分ながら気恥ずかしいくらいでした。

 ドンヨリとした梅雨空のはるかに蜻蛉のような機影が現れたときは、思わず諸手をあげてわが班の恵まれた運命を祝福しました。


*電車中で説明

 通過証をうけとるや水際から自動車のとめてある堤まで二メートルの間を飛鳥のようにマラソンを競い、車にとびこむや紅班万歳の声がとどろきわたるなかを鹿のように走って難波駅につくなり、呼吸(いき)をもつかず電車に飛びのりました。

 モーいくらあせっても電車の速力より以上に走れるものでないと気を落ち着けて、朝刊の紙上に間に合わせるように頼信紙(らいしんし)を出して膝の上で電文をしたため終わるころ、乗客は総立ちになって私を話題の中心としてリレーの説明を求め、拡声器の前でラジオの放送を聴くように中には耳に掌をあてて電車の雑音の中で一語ももらすまいと熱心にきてくれる人もみうけられます。

「きょうはお天気が何より結構です」と皆さんが喜んでくださるが、それが私にとって何よりも苦しいので、大雨が流れるほど降ってほしい、風も望ましい。なぜならば、モシ白班の飛行機が飛んだならわが班は負けねばなりません。それに白班、紅班こきまぜて名文家として定評ある多賀第一選手を筆頭にみなお歴々ばかりなのです。そのうちに交じって年も一番若く五か月の経験しかない私に、伍してゆけるかどうかはまだ安心できないことでした。


*犬と荒男七人

 九度山につくと朝日の社旗は林のようにたてられ、電車から降りる私の姿をみるなり、すかさず雷のような万歳の声が湧きました。

 そこから群集の中を縫うて自動車を駆ります。気が落ちつくと今まで忘れていましたがが、こんなことを思いだした。

 社を出発するときに紅班本部で班友のMさんが「あなたはリレー唯一の婦人であるから女ならでは筆に上(のぼ)せられない、さすがは女の観察だと人を感服させるだけの材料を拾ってお帰りなさい」といわれました。それだ、私は女の観察を拾って帰らねばならぬ。どこかそのへんに「女の観察」が落ちてはないかと蚤取り眼でいっまわしてみても、それらしいものは見当たらず、どんなものか食べてみたこともないから「私にはわからなかった」とMさんに言い訳しましょう。

 そう思って頭をあげたとき、万歳!と叫ぶとともに白い弾丸のようなものが私の顔をめがけて飛んできた。ハッシとばかりに両手でうけとめる。掌のそのいたかったこといたかったこと、紙に何か包んである。

 ひろげてみると「北村兼子嬢の勝利を祈る」と書いた半紙に饅頭ほどの大きさの小石が包んであった。なんという物騒な後援であろうとさすがに恐縮いたしました。

 極楽橋で、自動車を人力車に乗りかえる。なんといっても五分十分という短い時間を争う必死の折であるから先曳きは犬を先陣にして強力が四人、後押しは車夫三人、応援予備としてはほかにまた四人の車夫が準備せられ、いずれも韋駄天ぞろい、私の体がこぼれ落ちないように細紐でしかと車に結びつけられ、ヨイショヨイショの掛け声とともに飛行機の滑走するように駆けだしました。


*女人禁制と私

 路(みち)はうねりにうねっていますが、しかし無意味にはうねっていないようです。ひと曲がりには、ひと曲がりの趣があります。ひとうねりには、ひとうねりの景があります。山高うして雲つねに宿り、谷深うして水絶えず咽(むせ)ぶ、信仰によって山はますます尊く見えます。

 河鹿と鶯とが夏と春をゴッチャに啼いているなかを走って極楽橋を渡ります。ここは凡夫どもが霊域を俗化しようとするのを防ぎ、山の清浄を保つがために設けられてあるかのように、これから奥は高野の名を辱めない秀麗の気に包まれています。

「明治何年やらまでは女人の登山を許さなかったこと(※注2)、それは貴女方にとって憤慨の種でしょう」

 と女人堂の前で車夫が新手と取り変わるときに、ここで出迎えてくれた若い僧侶が私にいった言葉でありました。

「登山の禁は解かれたかは知らないが、今でも女人堂はいたるところにあります。政治にも教育にも法律にも社会にも、参政権問題とか教育の機会不均等とか民法の親族編(※注3)とか、女子の差別待遇とかいう種々の女人堂が設けられて、われわれの思想問題はそこで停滞しています。なにもお大師さまを恨みとは思いません」

 と私は答えたので、この若いお坊さん、おおいに共鳴してくださいました。


*若い僧の責任

「弘法さまのお考えは過去や未来を説いて人心を委縮させるようなケチくさい教えではなく、現在において極楽世界を地上にたてる意味ではありますまいか」

 とつけ加えたら、他の人々も同感だと仰せあった。

  たかの山迷いの雲もさむるやと

      その暁(あかつき)をまたぬ夜ぞなき

                光厳法王

 高野山は常時にあって思想界の重鎮として畿内を睥睨したものであろう。この権威を回復するのは実に目覚めた若い僧侶の責任ではありませんか、と走り出す自動車の中から万歳を叫ぶ人々をみながら考えました。

 金剛峯寺へ着くと、山内は人で満たされている歓迎ぶり。お座主さんがお待ちかね、揮毫席も準備ができている、貴女の面前で筆を揮(ふる)ってあげようとの仰せは退なけれどそんな暇もなければ、一枚の染筆をもらってお暇する。

「夏期大学が開かれるから遊びにござれ、勝ったら大師さまへ報告にお越しなされ、抹茶一服どうですか」

 など俗離れのしたご厚意、一々ありがたく受けて、お庭に週刊朝日でおなじみのカンナの花が咲き乱れているのに一瞥をくれたまま、あわただしゅうまた車中の人となる。


*乗馬越の計量

 急ぐ旅には早くも日は暮れる。大空には黒い龍がのた打っているような雲がひろがる。そのうちに月が清い光を投げてくれた。また雲にかくれた。また出た。かくれた。出た。かくれた。かくれた。とうとうかくれてしまった。ふりかえってみると、印度人が黒衣を着ているように、黒い高野山は静かに立っています。

 車は雪崩れるようにくだってゆく。うしろへヒョロついたら上り坂、前へノメったら下り坂、ざアざアは谷の水、ガサガサは風の音。文字どおり暗中の模索、こうなったら私の運命も紅班の勝敗も七人の強力と一匹の犬とによって決まるので、変なことにならねばいいがと車の上で心配しましたが、九度山について腕時計をみたら、おそろしかったはずです、五十五分で一路三千尺(909m)を登りつめ、四十七分で同じ道をくだってきたのですもの。

 ここから馬上で間道を経て高取山へ乗りきる予定で、ある乗馬友だちからひそかに駿馬を提供していただいたが、月がかくれて闇となったうえに、前日の暴雨で道路が破損しているからというので、芝居じみた冒険はヤメにして結局ドウドウをブウブウにかえて自動車で壷坂さして駆けだしました。


*半七と澤市と

 大和はその名からして平和のシンボルである。山も静か、野も静か、宵の口なのにもう戸を締めて眠っている。五条付近をとおったときに、三勝半七の比翼塚があるときいて「今頃は白班さんどこにどうして……」とサワってみたことでした。

 頼信紙を出して自動車の中で名文を書くつもりが、用紙の罫さえみえかねる暗黒の景色では、いかな文章家でも書き得られまいから、これくらいでゴマかしておこうと淡い車中の火にすかしながらつぶやいていますと、暗中聲あり、その言いわけは暗い暗い。

 ついに闇の中に山影がボケてみえる。うれしい、それが高取山である。この山は南北朝時代に南朝がよった要塞で、近古では天誅組の志士吉村寅太郎が闇に乗じて夜襲を試みた古戦場で、壷阪寺は、その上にある西国第六番の札所。

「岩をたて水をたてえて壺阪の庭のいさごも浄土なるらん」の御詠歌を思いだして唱えてみましたが、チンチンと鉦(かね)の入る代わりに自動車がブーブーと合いの手をいれます。

 壺阪寺へかけこんでバトンに判をいただく。このお寺は院本で有名なところ。「目をかいのみえぬその上に貧苦にせまれと、なんのその一日殿御の澤市さん……」と濃厚な情緒に三年越の眼病が治ったというご利生。観音とは音を観る、心眼を開けば形なくして見え、音なくして聴こえる、芝居に仕込んでも翻意を解せぬ見物は形而上の悟道の解脱を肉体の上にのみみて、ただお里に同情する。その考えをも少し深く突き込んで考察していただきたいのです。


*勝どきのこえ

 お寺には澤市の杖という珍妙な売物があるそうですが、モシ私が住持になったらどこかで古草履を拾ってきて「これはお里のはいたものでござい」と由緒をつけて澤市の杖とならべて正直な参詣者に随喜の涙を要求しようものをなどと、不逞な考えを起こしただけでも不都合千万。どうせ死んだら地獄ゆきと頭を縮めておぞ毛をたてました。

 和尚さまは親切にいたわって下さいました。お茶をいただくまの猶予もなく、思いきったる鎧の袖、行方も知らずなりにけりと、十次郎もどきに自動車は花道ならぬ山道の闇に消えていきました。

 途中、通信部の人たちが出迎えて下すって白班は手違いができて飛行機が飛ばなかったので、第六選手はまだ関門海峡を東へ渡っていないとの情報を得て、紅班びいきの方々とその喜びをわけあったことでした。

 任務はすみました。しかも勝利をもっておわりました。そのとき高野山の井村主事からの飛信で「北村兼子女史が関所争奪戦に終局の勝利を得られしを祝いて」として

  たかの山やまもとどろにとよみけり

     君があげつる勝ちどきのこえ

 の祝歌が寄せられる。電車の中はただもう出迎えてくださった方々や、一般乗客までが総立ちになって大勝利大勝利とはしゃぎきってしまいました。



注1:同誌は大阪朝日新聞の女性団体が発行。大正8(1919)年に行なわれた全関西婦人連合会の第一回発起人大会には、各婦人団体から代表200人が参加し、4000人もの女性が参加した。大正デモクラシーの新しい気風のなか、女性たちは言葉を交わし、互いの声を聴いた。

注2:高野山は明治5(1872)年の太政官布告第98号で従来の「女人禁制」を廃止。西洋を模範とした近代国家としてはふさわしくない「陋習」だとする方針だった。

注3:明治31(1898)年に公布施行された明治民法のこと。これより8年前に公布された民法では児主権と長男単独家督相続制――いわゆる「家」制度が規定されたが、いったん停止の後31年の再公布となった。

明治民法は、財産は長男が相続して女には教育費を出さない、結婚には親の許諾が必要など、女性を抑圧した法といわれてきた。ただ、近年の歴史社会学や女性史の研究では、「夫が妻の財産を管理して権限を制限する男性優位は、近代国家成立時の欧米諸国の民法にもある」ものであり、「明治民法はむしろ西洋にも共通する近代家族法」という見方が強くなっている。なお「婚姻の姓は夫の姓」は192条にある。

兼子が関西大学に通い、記者に採用された1920年代には近代家族が増加したため、戸主権を制限しようとの民法改正の動きが広まりつつあった。これは男性の専門家による動きだったが、兼子をはじめとする女性運動家もまた、支援していた。つまり、兼子の言葉は当時のこうした流れをくんだもの。




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