花束書房

幕末→大正期の女性史マガジン■北村兼子研究(復刊)■編集・出版業(準備中)。

【山を動かした女たち①】「エボシ御前」を継承した五代アイ(藍子)


〈足が悪くても、一度山に入ると、坑内のクモの巣の中を、縦横に走り回るほどの健脚ぶり〉『五代友厚秘史』

広岡浅子みずから炭鉱(ヤマ)に入ったことは、『あさが来た』でよく知られるようになりました。ドラマのなかで彼女に求愛していた五代さまの次女・藍子(アイ)もまた、鉱山(ヤマ)に夢をみた人物。もんぺと地下足袋をはいたアイが、大金をはたいて買った鉱山を手ずから掘り進めた話は語り草になっています。

老いては六角棒杖をつき、愛犬とともに鉱山へ向かっていった「女山師」は、50年もヤマで暮らしながら村人の誰ともかかわらずに終わったといいます。その執念と挫折、謎に満ちた生涯はいまも人々の好奇心をかきたてているようです。



*「五代アイ」名義で鉱山を買い戻す


アイが生まれたのは明治9(1876)年。五代友厚の後妻であった母親・宮地勝子は、京都の宮侍の娘だった。アイが誕生したとき、五代は「また娘か」と言いつつも喜び、そのころ興そうとしていた精藍所にちなんで藍子と名づけた。

五代はアイが10歳の折に他界。アイは本妻と折り合いが悪かったこともあり、大阪から上京して仏英和高等女学校(現・白百合学園)に進学する。卒業後は、半田銀山(福島県)を運営する義兄のもとに身を寄せ、洋書を精読しながら鉱山学を猛勉強するように。「鉱山王」ともいわれた父の事業を継ごうと決意したからだった。

五代が臨終の際、ふいにもらした「家業を受け継ぐのはアイのような気がする」との言葉がアイのなかでふくらみ、いつしか自分の役目とするようになったらしい。縁談も断り、20代は鉱山を知ることに集中した。

炭鉱で啖呵を切った浅子ばりの逸話を残すのは大正8(1919)年のこと。父亡きあと、他人の手にわたっていた三重県の治田(はった)鉱山を、「五代アイ」名義で買い戻したのだ。張った額は20万円。44歳になっていた。

鉱山はすでにかなり衰退していたが、アイは「幕府のお手山だったのだから、荒らされていない下部にはきっと大きな鉱脈がある(※注1)」と信じ込んでいたという。大通洞杭を開くため、銚子谷に橋を架け、青川のトンネル(隧道)を掘削していく。

それから十数年。アイの信念もむなしく、成果はほとんど上がらなかった。壮大な夢は破れ、人々も去り、村は廃れて、いまはアイが掘った隧道が残っている。

昭和44年、88歳で他界。エネルギー改革の時代に入り、鉱山は過去の遺物になりつつあった。


*「おとこ女」「男女両性人」と呼ばれたわけ

 ヤマに賭け、50年以上も治田で過ごしたアイだったが、地元での暮らしぶりは奇妙なものだった。治田の村人ほとんどがアイと話したことがなく、アイもまた、治田の人をほぼ知らずに終わったのだ。

 アイに代わって治田の人々と交際し(立ち話程度だったらしい)、家事を一手に引き受けていたのが、「ウメさん」という女性。アイが「侍女」と呼んでいたウメさんは、美しく気品のある女性だったと伝わる。人々は、ウメさんをいわゆる「女らしい」人と見たいっぽうで、アイのこと蔭で「おとこ女」「男女両性人」などと呼んでいた。美しい女性とふたりで暮らし、「女だてらに」ヤマに入るアイは、さまざまに噂された。

 アイを見かけた人によると、やはり犬をつれていて、生まれは「お公家さん」とも噂されていたらしい(地元の歴史学習会ブログ、5月13日の記述より)。

 また、生い立ちは「どこかの偉いお方の妾の子らしい」などと噂されていたが、これは当たっている。五代友厚という実業家を父にもち、その愛人であるやんごとない家系筋の母をもつことが、少しずつ伝わったのだろう。アイのパートナーのようであったウメさんは、実家か、母の家からおともしてきたのではないだろうか。


*エボシ御前(もののけ姫)のモデル?


 「おとこ女」「男女両性人」。アイの外見からついたあだ名だという。戦後、高齢になったアイの写真(60~70代くらい?)を見ると、パッと見は男性にも見える(が、高齢になるとホルモンバランスの関係でおばあちゃんのように見える男性もいるし、はっきりしたことはいえない)。

 じつはアイと同時代、「おとこ女」「おとこ婆さん」と呼ばれた「女性」はいた(私が調べた限りでふたり)。その人たちは、アイのように近代産業(炭鉱・鉄鋼・建設)において、主体的に(親方・事業者など)活躍したという点で共通する。

 当時の感覚でいう「おとこ女」とは、いわゆる「ボーイッシュ」な女性という外見ではなく、男性そのものに見える人を指したのだと思う。前述の近代産業分野で「おとこ女」などといわれた人たちは、顔つきだけでなく、衣服や髪形まで含めて男のものを選び、男の身なりをしていた。つまり、「職業・言葉づかい・自らの呼称・衣類・髪形」が「まるで男性」だった。

 当時は「女性」であれば着物に長い髪を結い上げるのがふつうだ。着物と髪形は男女の別がはっきりしていたので、余計にわかりやすい。だから、男性の着物・髪形を選ぶ「女性」は、「男おんな」と呼ばれたようだ。いまでいうトランスジェンダー(FtM)の概念はなかったので、男女両性をあわせもった人、という当時なりの概念をあらわしたのが「男おんな」といった言葉だったのだと思う。

 同時代に「男おんな」と呼ばれた人たちのなかには女性を性愛対象とした人もいたが、アイの場合、これは微妙で、はっきりしない。ほかの条件も判別しにくいので、断言はできない。アイは家業を継ぐ(これは江戸時代から女性でもありえた)ため、みずからの意思で結婚をやめたとも伝わるので(家の「事情」でそういうことになっているのかも)、ウメさんも、家から連れてきた女中的な存在だったと思われるからだ。職業・家業上の性役割で「いまでいうFtM」と判断するのも、父の遺言のことを考えると、やはり微妙なところ。

 とはいえ、アイの生き方は当時の家父長制下の標準からおおきく外れていることはたしかで、仕事(事業)で成功したいという思考はきわめて男性的といえる。炭鉱は、殖産興業・富国強兵をかかげてきた国の代表的な事業であり、男の職分。家業を継ぐために、鉱山で身を立てようというのは男の生き方そのものともいえる。

 じつは、治田にはもうひとり「男女両性人」という呼ばれた女性がいた。「おまきさん」なる女山師で、やはりアイのようにヤマを掘り進んでいた人で、村人たちと交流せず、人々の好奇にさらされたという点も同じだった。雑木林にポツンと建つ「おまき屋敷(奥村字西野々)」に住んでいたという。

 おまき屋敷には、灰吹場(精錬所)まであり、おまきさんは掘り出してきた鉱石をここで精錬していた。その収益があったので、夫と死別後も裕福に暮らしたそうだ。

 女ひとりでのこうした暮らしは、かっこうの噂話のタネになる。あるとき、村人がヤマに入るおまきさんを尾行したが、途中で見失った。別の村人たちも後をつけたがダメで、そうするうちにおまきさんを「妖怪だ」「男女両性人だ」と呼ぶようになった。その口調には、得体のしれないものへの畏怖が混じるようになった。

 おまきさんが掘ったはるか山奥の鉱山跡――「おまき鋪(しき)」は、アイが架橋し、トンネルを掘ったあたり。鉱山跡が数多くあるなかで、おまき鋪だけは後世、誰がどう探しても鉱山口を見つけられず、「幻の鉱山間歩(まぶ)」と呼ばれるようになった。間歩とは堀り口である横穴のことで、のちにおまきさんが流れ者の男を「間夫」としたことから、これもまた、「すき間をふさがれた(間歩を石でふさいで鉱口を閉じた)」などと意地の悪い噂話となった。

 鉱山を掘るためにアイが治田にやってきたとき、村人が思い出したのがおまきさんの伝説だった。いつしか、外見が男っぽいアイにおまきさんを重ねて「男女両性人」と呼ぶようになる。おまき鋪の近くで信念を燃やしたアイに、畏れのようなものを感じたのかもしれない。



 地元で「アイさん」と呼ばれた五代アイの実像は、鉱石に執念を燃やしたまま果てたということ以外、いまも謎のまま。その足取りは『もののけ姫』のエボシのようなおまきさんにも似て果敢だが、徹底して人とのかかわりを避けたことは真逆のようだし、なにを意味するのかわからない。これからまた調べを進めたいと思います。

 日本では古くから、「男女両性人」的な存在には強い力が宿るとして、畏敬の念を抱く文化が根づいてきた。そうした文化を野蛮なものとして排除し、男女の別を支配上の規範としたのが明治以降の歴史でもある。アイにたいする陰口には、侮蔑や拒絶とともに小さな畏れと敬意がこめられていて、それが彼女を惑わせ、口をかたく閉じさせたようにも思える。


注1:治田鉱山は、2代将軍・秀忠の娘である千姫が、本多忠刻に嫁ぐとき、化粧料(持参金)とした山。江戸時代には天領として銀と銅が採れた。



五代友厚の精藍所の跡。アイは治田で「アイさん」と呼ばれていた

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