花束書房

幕末→大正期の女性史マガジン■北村兼子研究(復刊)■編集・出版業(準備中)。

日本初の女子大生・黒田チカ


幕末好きの間ではおなじみの「佐賀の七賢人」。佐賀出身の「偉人」を語呂よく7人まとめた呼び名ですが、お察しの通り、女性は入っていません。

ここでご紹介する佐賀生まれの黒田チカは、「女性活躍」「リケジョ」といったワードとともに地元でにわかにフィーチャーされている人です。


*「帝国大学は“女人禁制”の場でした」

チカは、植物色素の研究で保井コノに続いて日本女性で2番目の理学博士となりましたが、「日本初の女子大生」という肩書のほうが有名です。

明治後期の日本で、大学は「東大・京大・東北大」の3校しかありませんでした(旧帝大)。早稲田や慶応など私立は専門学校であり、女子が高等教育の場は、東京・女子高等師範学校(お茶大)、奈良の女子師範学校(奈良女)のみ。つまり、当時大学に入学できたのは男子だけ。しかもひと握りのエリートでした。

この状況が変わったのが大正2(1913)年のこと。東北帝大理科大学が、高等学校卒業程度の学力を持つ者という条件で、女子に受験資格を与えたのです。これに応募して合格したのが、チカ(化学)と、以前紹介した丹下ウメ(41歳・化学)、牧田ラク(26歳・数学)。チカは30歳になっていました。

東北帝大が女子学生を受け入れたことは大英断でしたが、「事件」として新聞をにぎわせ、「女だてらに」大学まで進んだチカは世間の好奇の目にさらされるように…。


そのプレッシャーは、入学後さらに大きくなります。

女性が社会進出するようになったこの時代、それまで男性しかいなかった職場などで「風紀が乱れる」といった声がしばしばあがり、邪魔者扱いを受けていました。

入学したチカたちを待ち受けていたのも、同様の差別発言の嵐。学生たちからは、

「女子が混ざると全体の調和が乱れる」

「教室に女学生がいると注意力を放漫ならしむる」
「女子が入ると学科の程度が下がるおそれがある」
「男女合同研究では、生理上の障害が多かろう」
…といった声がやんやとあがり、「女子排斥決議」が出される始末。

チカらはだんまりで通して学問に没頭し、男子に劣らぬ成績で卒業。その後は理化学研究所の研究員として研究・教育に没頭していきます。

ちなみに、丹下ウメは病気のため休学したので卒業が遅れ、牧田ラクは卒業後に結婚、研究の道は選ばなかったので、チカが「日本初の女性学士」「日本初の女子大生」といわれるようになったのです。


のちにチカは「帝国大学は“女人禁制”の場だった」と皮肉をこめて振り返っています。

旧東北帝大の次に女子の入学を認めたのは九州大学農学部(大正14)年で、東大と京大が許可するのは戦後のこと。旧東北帝大でもチカやウメに続く人は残念ながらあまり現れませんでした。

戦後の学制改革でお茶の水女子大学が発足すると、チカは教授に就任。退官後も非常勤として後進を育てました。

昭和43(1968)年、84歳で死去。晩年には、チカを会長として「日本婦人科学者の会」が発足、チカが主人公の児童向けドラマも放送されるなど、研究に身をささげてきたチカにとってうれしいできごとが続きました。ドラマのタイトルは『たまねぎおばさん』(1964年・NHK)。チカを演じたのは市原悦子(26歳)です。


上野の国立科学博物館にあるチカのレリーフ

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