花束書房

幕末→大正期の女性史マガジン■北村兼子研究(復刊)■編集・出版業(準備中)。

鎖鎌をふるった〇〇の祖・津久井磯(いそ)

幕末。鎖鎌を携え、夜道を歩くひとりの女性がいました。……なんのために?


出産のために。

彼女の名前は、津久井磯(つくい いそ)。助産師の元祖であり、産院を設立して後進の育成にも力をつくした人物です。


*江戸の職業婦人の代表格

磯が生まれたのは、文政12(1829)年の前橋(群馬)。以前ご紹介した奈良のゴッドハンド女医・榎本住(えのもとすみ)は、ひとつ年下の文政13年生まれです。


当時、江戸では庶民が担い手となった文化が爛熟期を迎えていました。

画業や商業で名を成したり、寺子屋・三味線の師匠として職をもったりと、自活する女性も増えていました。


町娘であっても歌舞音曲の腕を磨けば奥女中として働くこともでき、奥勤めは結婚に際してかなりの箔になるのでおっかさんから無理やり習わされてうんざり……なんて娘も(式亭三馬『浮世風呂』)。こうした風潮から、とくに踊りと三味線はブームになっていました。

幕府・大名家の奥勤めといえば、れっきとした「職業婦人」。老女にまでのぼりつめれば一家を興せるなど女性でも権力を手にする余地があったのです。

助産師も、当時は女性の数少ない技術職のひとつでした。とっても当時は「産婆」「とりあげ婆さん」などと呼ばれていて、国家資格や免許もありませんでした。頼まれれば堕胎をし、非衛生的な処置によって妊婦の命を落としてしまうこともある、怪しい側面もありました。

明治になると、政府がこうした状況を変えるべく、東京に産婆教授所を設立。ドイツ式の助産学による試験に合格したものに免状を与え、これを正規の助産師とするようになりました。


*叔父さんから鎖鎌の武術をならう

水戸藩士の父のもとに生まれた磯は、17歳で叔父に引き取られ、以降、小石川の水戸藩邸で仕えます。鎖鎌の武術を身に着けたのはこのころのことで、ほかに和漢の教養、産婆の技術をおぼえていきました。

鎖鎌というのは、鎖の一端に分銅を、もう一端に鎌をつけた武具。分銅を投げつけて敵の武器を絡めとったり、腕を絡めとったりし、鎌で切りかかるのが鎖鎌術です。

(ちなみに:前に紹介した「民権婆さん」こと楠瀬喜多も鎖鎌をならっていました


ペリーショックの嘉永6(1853)年。25歳になった磯は津久井家に嫁ぎます。夫は評判のいい西洋医でしたが、経済的には苦しかったので、磯は自分も産婆として働いて夫を助けることに出産の声がかかると、夜半であっても鎖鎌を携え、怖がることなく出かけて行ったといいます。身に着けた武術と技が、彼女に責任感と自信を与えたのかもしれません。


*御一新。アラフォーからの新しい人生


明治の世があけてまもなく、20歳年上の夫が病死してしまいます。ふたりの間に子はなく、先妻の子が家督を継承。磯は42歳になっていました。


さて――。磯は引き続き産婆として働きながら、独り立ちすることにしました。


ちょうどこのころ、産婆も免状がないと開業できないなどの規則ができていたので、磯はどうせならと本格的にスキルアップを狙うことにしました。目指すは、東京にできたばかりの産婆教授所。十数年のキャリアと夫から教わった西洋医術の知識、教養を身につけてきたこともあり、磯は難なく資格を取得。前橋(群馬)へ戻ると、産院を開業します。


磯の産院は客が絶えず、やがて門下生も増え、そのなかには日本の女医第3号として知られる高橋瑞子がいました。

瑞子は、25歳で遅い結婚をさせられるも夫とうまくいかず、離婚。その後、自活のために産婆を目指し、27歳のときに磯の門を叩きました。

磯は、産院に住み込んで猛勉強する瑞子の優秀さに目をみはり、いずれは後継者に…と考えるようになります。結局、瑞子は医師を目指すようになるのでこれは叶わなかったのですが、磯は温かく見守りつづけました。

後年、瑞子もまた後進育成につくしています。東京女子医大の創立者・吉岡弥生は自伝で「女医第1号の荻野吟子が女医の生みの親ならば、瑞子は育ての親である」と書いています。瑞子を支援した磯の功績は大きいといっていいですよね。


ちなみに、江戸後期~群馬では養蚕がさかん。古くから繊維業は女性の職だったので、養蚕にも参入し、現金収入を得て家長としてふるまった女性も少なくありませんでした。大規模な養蚕を展開して事業主となった女性もいれば、土地を増やして人に貸しつけるなどお大尽暮らしをした女性もいて、女性が元気に自活しやすい風土でした。


戦後に出版された『上毛女人』(小瀧和子)では、磯のことを「婦人が決して男性に劣るものではないことを証明する生涯でありました」と綴っている。


藩邸時代に叩き込んだ所作、言葉遣いはじつに端正で、磯は晩年でもちょっと近寄りがたい厳しさを漂わせていたとか。そして、酒席でしばしば得意の鎖鎌を披露したとも伝えられます。





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