花束書房

幕末→大正期の女性史マガジン■北村兼子研究(復刊)■編集・出版業(準備中)。

【北村兼子】「北村兼子一代記」:後編


★大正~昭和初頭、ジャーナリストとして活躍した北村兼子初の著書『ひげ』(大正15・1926年刊/改善社)。巻末に収録された兼子の履歴です(前編・後編)。

★関西大学法学部に在学中からすぐれた才知が評判となり、大阪朝日新聞にスカウトされた兼子は、『婦人』『週刊朝日』など多くの雑誌にも評論や随筆を寄稿。そこから評判の文章を抜粋して刊行したのが初の著書『ひげ』です。売れに売れ、発売1か月弱で四版が発行。このとき、兼子23歳。

★筆者は関大同級生とおぼしき「友人H生」。女学校時代はおとなしかった兼子が才気をきらめかせていく姿を綴っている。女子学生連盟のため、男女共学というテーマで初めて演説に臨む(しかも即興でドイツ語でも演説)くだりは、稀代のジャーナリスト・フェミニストとしてついに懐刀を抜いた瞬間を見るようです。

★「女子で・関大で法律を学び・演説会を沸かせた」兼子はたちまち時の人となり、新聞三社からスカウトされ、大阪朝日へ入社。大型新人として新聞・雑誌に取り上げられるように。それらの記事も引用しており、当時としていかに規格外の存在だったかが垣間見えるとともに、「当時の新聞が女性をどう報じていたか」というところまで伝わってきます。


***

 それから筆をさげて、大阪朝日に入社したときの模様は「今日新聞」に次のように乗っている。

  女子でも実力があれば天は決して見落としはしないという最近の一例を左に紹介して「自任女王」さんたちのお薬にしよう。このお話を煎じて飲んでおきなさい。

 一例というのは、これは今の大手前高女、元の梅田高女大正九年の卒業生に北村兼子さんというのがいる。兼子さんは学校を出るとすぐ外国語学校の別科生となって英語を学ぶこと二年とこの間、軽井沢の夏期大学に出かけた。エスペラントを一心にやるという勉強ぶり。さらに一昨年十月から関西大学法科に入学して、これまた万苦を排して勉強。その結果、一年から二年への進級にあたってドイツ語とドイツ法が得意だけに満点、男学生をアッといわせるという有様。憲法と刑法が大好きで明年三月は卒業の予定にある。

 当年とって二十三の花盛り、しかもご本人は自分の花盛りをよそに望外な要求も持たずに日々バタバタとして勉強にいそしんできたのである。ところがこの兼子さんが大阪毎日の英語雄弁大会に出場したことがあったが、西洋人の次に割り当てられていたので、それでは自分のスピーキングは物笑いだととっさに一策を講じてペラペラとドイツ語でやってのけ満場をうならせた。

 このことから、この兼子さんに目をつけたのが、大阪毎日××局の某助役さん。これなら前の婦人記者と違ってものになると思い込んだのが病みつきで、一生懸命、大毎への入社勧告の秋波を送りはじめたところが、これと期を一にして「女子」ということに抜け目のない××日報からも袖を引きはじめたのである。

 ところがこんな秋波のカチアワセの間をくぐって兼子さんを引っ張り出したのが、新聞界のローマ法王大阪朝日新聞社である。大朝が兼子さんによくよく目をつけた動機についていろいろ噂もあるが、物語子が確実に調査したところによると、これは同社会部では活動家として名のある森本君が朝日にできた婦人雑誌への原稿として、兼子さんが「サンデー××」に出すはずの原稿を持って帰って、幹部(多分、大江素天さんと思う)のひとりに見せたところ、その論理の明快整然さ、まことにこれ女子にして女子に非ずという堂々たる筆陣。さあ幹部さんはスッカリ感心した。

 これが大朝社が兼子さんを引っ張りはじめた理由。さすがは大朝社幹部、ペンの色香に惚れたというもの。とにかく兼子さんは三新聞から言い寄られたわけであるが、「なにぶん在学中ですから」と優しく拒絶したものの、「大朝なら」というところから、この二月二日よりいよいよ大朝社入り。学校のひまひまに出社してひまなときに裁判所を覗くべしというような寛大な命令のもとにいよいよ大朝婦人記者として活動をはじめることになった。

 大朝社では、さきの人のように固すぎず人ざわりがよく、しかも一度ペンをとれば男性的勇猛にたちかえる兼子さんの性質をなにより喜んで、従来の看板式婦人記者とは意味を異にし、男のヒゲ武者記者と同待遇に取り扱うことになっているそうである。

 なにがさて日本広しといえども、新聞社から言い寄られて記者となったのは兼子さんをもって嚆矢とする。しかしこれも、兼子さんがその先代漢学者の血を受けて着実に勉強して、昨今の女学生諸クンのような浮薄な根性を持たなかったことによる。時節がらと思ってこの長物語、願わくは煎じ飲みたまえ。


 この記事を見て私は女史に、実否を質(ただ)したら、女史は「そんな立派な女じゃありませんよ」と笑っていた。

 記者として働いた模様も、各新聞の記事にある。「新日報」に、

  今度の行啓に列外供奉やら御成りの場所で報道の任を全うすべく、各新聞通信記者および写真班が、約八十名などそれぞれ府警察部に出願に及んだ。

 中に満緑叢中紅一点という美人が一名ある。それは大阪朝日で近来メキメキと売り出した北村兼子女史という芳紀まさに二十二歳の婦人記者である。同社では北村女史を抜いておおいに活躍せしめようと、かくは晴れの場所へも出張せしめることとなったそうだ。

 「関西日報」には、

 お茶っぴいであった北村兼子さんも大阪朝日新聞記者となってめっきり女ぶりをあげてきた。先夜、ある宴会にその姿を現すやたちまち当夜の人気者になって大持て「アラもう八時。私、帰らないと父に叱られるわ」。片手を胸において体中フニャフニャ。その姿がかわいいとて婦人連に喝采された

 大新聞の花形記者に、夜の八時になったら父に叱られるからと宴会の席でモジモジする娘があるから面白い。

『淑女』には、

 関西大学に籍をおき法律を学ぶ北村兼子女史は、朝日新聞の記者として、その明敏な観察力と達意の文章で新聞界の一躍、名をあげられました。記事の上ではいかにも男勝りのようですが、モダンガールのひとりとしてはきわめて謙譲な淑やかな令嬢であります。

 「民衆の法律」に、北村兼子女史を訪う記事中、七月十日夜、私は非常の期待と興奮とをもって大阪に令名高き朝日新聞記者、はたまた法学研究者たる北村兼子女史を訪れた。

 私は女史とは未知という間柄ではなかったので、初対面の窮屈さは感じなかったが、ひとたび女史の私室に導かれたとき、思わず能弁の私を鋭く抑圧するあるものに包まれてしまった。

 なるほど、私は女史とは未知ではなかった。けれども、かつて女史が持つ、尊いいろいろの趣味を解しているほどの間柄でもなかった。文盲に等しい私は、女史の私室に引見され、女史の支那古典趣味に会って、グウの音も出なかった。

 私としては女史の生活、思想の体験談――単に女史が新聞記者としての立場だけでなえく――を聞きたかった。だが、猫に睨まれた子鼠の窮して身を棄つるごとく、脱兎のごとく、訪問記者の使命もなにもかもオジャンにして逃げ帰ってきた。

 恐ろしきかな女史の腕! 眼!

 『今日新聞』に、

 しかるに最近の朝日社内には、万緑叢中紅一点の麗句をそのままの一女性が活躍しているために、男社員一同の鼻穴は恐ろしいまでに前のほうに飛び上がり、鼻下はいやがうえにも伸び、紅一点の匂いを追いまわしながら、これ見よがしに働くは働くは、この紅一点の男社員に及ぼす効果は多い。

 ときは今、春である。なまぬるい風が土佐堀川から吹き上げて朝日社の二階にふわりふわりと舞い込んでいく、さなきだに能率があがるときなのに、紅一点が女臭さを発散するからたまらない。男社員はトッカピンでも常用しているほどの元気をみせて能率をあげ、原稿を書くは書くは、実以て想像以上であるとのうわさである。

 鞘当てだの三角関係なぞはいまだ起こらない、当分、あるいは将来も常識家の新聞記者仲間のことであるから、そんなロマンスは絶対に起こらないのかもしれないが、紅一点クンが来てから大朝社員に春風がフワリフワリとただよって、一同の能率を上げたことは確かである。そもそも紅一点クンとは誰か。それはすでにお察しの方もあろうが、本紙学校物語子が既報したことのある北村兼子クンその人である。

 ×毎と×新聞とで引き込もうとしたのを、このほうが先口だとばかりに大朝が入社せしめたほどの人気女性。もちろん頭は素晴らしく発達している。あくまでも知的な顔色、丈はちょいと低いが元気に満ち満ちている。

 ところで、こうした女性に限って女性らしくないのが通弊であるのに、この女(ひと)は例外であって、誠にしとやかで優しい。といってじゃらじゃらとして卑しくはない。聖母マリアの慈愛が多分に恵まれている(ヘン新聞子おかしいぞ)北村クンの筆始めは先日来、大朝朝刊に連載されていた「男のみた女、女のみた男」の記事がそれである。

 どのくらい筆が立つかはあれを読んだ方はおわかりだろうと思う。よって、ここに前古未曾有の婦人記者として公然と提灯を持ちたがっていながら、同僚や先輩の手前、北村クンのことを口にも筆にもすることのできぬ大朝社バチエラー記者に代わってここに業々しくも犠牲的筆をとった次第である。

 かように北村女史は漸次、頭角をあらわすに至り、世界の大新聞たる大阪朝日で大江粗天氏に私淑し、木村社会部長に師事して三月たたぬうちに一通りの新文学を会得し、折から但馬の震災の起こるや、新米の身をもって特派員として活躍し、その通信は大朝紙上に異彩を放ち、さらに同社が関所争奪通信リレー競争を催すにあたっても、選ばれて選手に加わり、その通信文は電報ではあったが実に軽妙なものであった。すなわち、つぎのごとく。

 九度山から四十八坂を伝って登る自動車の忙しい喘ぎのうちに椎出に来た。ここから人力車に乗り換え、強力七人と犬一匹で新手をとっかえひっかえ強行軍。気の毒で感謝に堪えぬ。人にはお礼の意思表示の器官があるとしても犬のほうはどうしよう。この可憐な、しかも紅班の偉大な援助者に……。ただ一遍のまずしい煎餅の贈り物にも満足して、零犀相通ずるこの純情の動物を……。満丈カ嶽は昔、罪人を簀巻きにして投げ込んだところ。その凄まじい崖をヒタ押しに押し切るとき、俥は羽子板のように上下し、体はまりをつく。

 女人堂につく。弘法様から差別待遇せられるまでもなく、女のつまらなさはパラダイスロストでよく知っている。「女をいやがる高野の山になぜに女松が生えるぞや」と近松はお大師様よりもミルトンよりもハイカラでわけがわかっている。金剛峰寺で座主から染筆をいただき、井村主事らの好意、それから高野登山自動車株式会社の運転手の献身的努力でタッタ五十五分で絶頂へ引きずり上げられ、四十七分で麓へ投げ出された。これが早さのレコードであるそうな。

 友班は奈良をとって思う壺阪へはめたつもりでも、こちらは破竹の勢い、沢市の盲滅法に長身して高野と壺阪の二本差し、闇の高取山を乗り切った。壺阪寺へ駆け込むと、お住持が提灯片手に選手の写真の載った大阪朝日を下げて、悠々として首実験が始まる。偽物ではござらぬ。写真通りの首を当人持参でこの通りと帽子を脱いでお粗末な顔をつん出す。よろしいとバトンにべたり。

 金剛山と多武峰とを前後にして景色がいいところと聞かされるが、こんな真っ黒の景色なら目をふさげばどこでも見られると小面憎いことを考えながら自動車に乗る。はずみに罰はてきめん、したたか頭を打つ。その上からほととぎすがテッペンカケタカは痛かった。無茶押しに大阪に着く。難波橋で自動車の上に伸び上がった私の目は、闇の中にそそり立つ社の高塔の灯をとらえた。決勝点はその下だ。勝ちか負けか。心臓は高浪を打つ。

 社前に停まった自動車から弾き出された肉弾は、流星光底。わが紅班勝利のテープをプツリ。長蛇はまっぷたつ。(電信文)


 女史の文は大朝をはじめ週刊朝日、婦人、グラフ等の朝日新聞社発行の刊行物に載せられ、論文に、随筆に、創作に、詩に、歌に、滑稽文に、才気横溢せる筆をふるい、入社してからまだ一年たたぬ間に、かように早く世に知られたものはほとんど例のないことで、この勢いで押せばこの人の前途は途中で脱線せぬ限り必ず「大もの」となるべき素質をもつといわれている…………友人H生



日本人女性初の五輪メダリスト、人見絹枝(短距離走)の記者時代の写真。兼子の4歳下、明治40年うまれで、兼子と同じ時期、大阪毎日新聞で活躍していた。兼子と同じ昭和6年に病死。

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