花束書房

幕末→大正期の女性史マガジン■北村兼子研究(復刊)■編集・出版業(準備中)。

【北村兼子】「貞操の所有権と処女の賭博」前編


★大正~昭和初頭、ジャーナリストとして活躍した北村兼子の文章です。大正15(1926)年刊『ひげ』(改善社)に所収。

★関西大学法学部に在学中からすぐれた才知が評判となり、大阪朝日新聞記者にスカウトされた兼子は、『婦人』『週刊朝日』など多くの雑誌にも評論や随筆を寄稿。そこから評判の文章を抜粋して刊行したのが、兼子23歳にして初の著書『ひげ』でした。売れに売れ、発売1か月弱で四版が発行。

★この評論のテーマは「女性と結婚」。女性が結婚に際してこうむる不利益・抑圧・差別をきわめて辛辣な表現で突きまくっています。悲しいかな、いまの女性にもあてはまる内容。終盤(後編)では、法律の知見を活かし、悪名高き明治民法(明治31年の改正民法)の旧弊ぶりを一刀両断。(今なお、世界的にも例をみないほど)女性自身が声をあげず、現状に甘んじている状況にも斬りこんでいて、やはり今こそ読まれほしいと感じます(いつものことだけど)。

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 社会政策と婦人問題とを除外して何の政治がある。結婚と職業とを省いて何の婦人問題がある。数回にわたって殺風景な評論をつづけた私は、この号においては結婚という艶のある問題をさげてボツボツでかけてみよう。


 処女に大バクを打たせるもの、これを名づけて結婚という。双方に了解もなければ意思の疎通もなく、陰陽両性を結合させ一生の運命を賭け、仲人という

舞台監督か悲喜劇の三番叟(※注1)

を演ぜしめる。

 結婚がナゼ人生の一大事かというに、異性はしばらく措(お)いて、女性にのみついて考察してみれば、自分の力のみで自分の運命を開拓する能力がないから異性にすがっていかねばならぬ。

 その男に財産があるとか、手腕があるとかで婿としての条件を構成するが、その財産がなにかの事情でなくなれば、妻として悲惨な境遇に堕ち、手腕があっても愛情が薄らげば、妻としてやはり同じ境遇に出くわす。おもちゃの風船玉が一本の糸に運命をたくしているように、フワリフワリとして自己の意思による能動的のものでない、いわば結婚は愛情問題よりも

生活上から重大問題という帰着

となるので、結婚しなければ生存することができないために結婚するのでは、妾や売笑婦と同じく貞操と食物との交換であって、廃娼論を唱える資格はないのである。事実において、何々夫人と称せられているものも夫を離れて自存し得るものは少ない。まして現在の地位と名誉とを保持していけるものがあろうか。これらの地位は自分の手腕で得たものでもなければ、自分の努力から得たものでもない。

内助というようなケチくさい働きは評価にあたらぬ

これらの貞操をかけたバクチが当たったものは上流夫人といばっているが、ある意味において売春婦より劣っている。


 本年の大阪市社会局の調査によれば、開業医、美容術師、結髪師が時として男子の平均収入を凌駕するだけの職業として認められ、これに次いで教員、タイピスト、看護婦、交換手、店員、事務員という順序になるが、平均四十円の月収でかろうじて衣食――衣(きもの)はむつかしいが食――だけは支弁せられる。

 しかるに男子が晩婚する結果は、婦人の家庭に入る機会が乏しくなって、勢い容姿を飾って

競争的に男子に媚びる

風習をつくり、その結果は衣服その他の調度に身分不相応な金を投じて男子の恋愛を刺激しなければならぬようになり、結婚を急ぐ焦燥の気分があきらかに見て取られる。近来、婦人界に華美な装身を見るのは、既婚婦人にあっては夫の愛をつなぐ必死の努力と、未婚のものにあっては、経済上の理由から男子の争奪に力を注ぐ必要を基調とする処世上の哀れむべき手段であって、つまり商人がショウーウィンドを飾るのと同じ必要があるので、必ずしも一概に虚栄のためと冷視してはならぬ社会現象である。


 女の犯罪が、情事関係を主とする時代から漸次に生活関係に推移して、金銭を目的とする窃盗が激増するようになったのは、生活苦が恋愛線から乗り出したもので

腹が飢えては性欲が発動せぬ

という論文を提出して博士になった人さえある。生活の脅威に追跡せられるときは、恋愛は権威を持たぬ。桜かざして今日も暮らす上流ほど恋の味は濃厚である。

 労働者の妻は共稼ぎによって自己の存在を現すが、多産によって生活苦を離れにくい。ただ身体の健康によって夫婦関係のある楔(くさび)となるだけで、俸給生活者の妻のごとく有閑階級で生活苦が直接身を攻めぬものほどに濃厚でない。

少女の恋愛に対する知識

は、活動や小説や芝居から得た架空的のものであって、これをそのままに実行することは危険千万であるが、さりとて恋に干からびたスポンジの禿頭で、愛に燃え立つ情熱の若人の自由意思を蹂躙することは一層悪い。

 女は情的方面に発達する年齢に達すると、知的方面が退歩するという議論がある。換言すれば、生理的に情欲が旺盛となるに反比例して心理的に知能指数が減退するというので、これは我々

職業婦人にとって脅威に値する

問題である。女の美しい期間が短いうえに早く結婚しなければ知能が減退するという。こんな同性を駆って男子と対抗しようとするのは、牛の臀(けつ)にモーターをとりつけて駿馬と競争するよりも絶望的である。しかし、ちょっと待て。学問の注射で脳髄に新味を注ぐことによって救われるものと信ずべき理由はある。

 職業婦人は家庭婦人より苦痛もあるかわりに、幸福を増進することは事実である。檻に幽囚せられている

狐や狸は外敵の襲来がないから安全

であるが、幸福とは言い得られない。職業婦人は外に放たれて敵と対抗して猛烈な脅威のなかにいるが、同時に幸福と自由を享受する。

 図々しい女になると、自己に生存の手腕を持ちながら夫の扶助に甘んじて徒食するものがある。また、夫の生存中は自己の手腕を自覚せず、扶助者に死別して初めて覚醒一番、寡婦として存在を認められたものもある。

 賢母良妻主義とはすなわち自立する能力のない意味で、学校の教科書のどこを探しても、

自主の気風を取り入れる文字がない

いわば死んだ水である。この混濁した水を飲んで自営の思想はみな排泄せられる。すでに自立の念がない以上は、夫の愛が去っても、妾ぐるいをせられても、ついて行かねばならぬ。

 古来、貞淑な妻といわれるものは、自存のできない経済上の理由からきているものが多いが、現在ではこれは意気地なしの骨頂とする。軽蔑せらるが当然のことである。残飯で買われている猫は化けない限り主人に抵抗しえない。女の幽霊はみなそれである。

 結婚を無理に人倫や道徳から取り扱っても、人倫も道徳も実生活の前へ持ち出したら山門の権威もない。妻というものは

貞操を資本として三度の飯を食う

ているものが多い。夫と切り離れて経済的に独立しないでは、尊い人格は認められない。不賢母、不良妻――愚母悪妻――である。この連中は一生懸命に夫の愛を手繰り、舅姑プラス小姑の鼻息をうかがっている、主観を殺す卑屈なものができあがる。これでは結婚式だなんて荘重な式をあげても、今まで父母に養ってもらった重荷を、これからは夫に食わせてもらう

責任の振替伝票に過ぎない

世の中に何が無鉄砲だといっても、自活の力のない女が結婚するほど向こう見ずなことはない。その女の足はシカと地上についていない。夫次第で出世もすれば零落もする。ヘチ婿をつかんだ裏屋の女房は負けバクチ、交際場裏の何々夫人は勝ちバクチ。この種の女には賢母もなければ良妻もない。朦朧仲人が投げたサイがチョウと出たかハンと出たかの差に過ぎぬ。

 身投げした女が美人であるごとく、女学校出の花嫁がみな才媛であるごとく、たまたま甘く当たったものが賢夫人と治まりかえる。そして厚かましくも廃娼や禁酒を叫ぶ。その叫びがだんだん大きく鬨の声となってきたが、幸いなるかな、鬨の声となったら馬鹿者の叫びも賢い者の叫びも聞き分けられるものではない。島原には太夫の道中がある優美な売春婦の行列である。目覚めた女に女権の叫びがある。弱い声で

煮えきらぬ装飾運動である

男性からヘッドライトのような眼でにらまれたらスグ屏息(へいそく。=恐れて身を縮めること)する。結婚したから運動はヤメ、叱られたからヤメ、子が生まれたからヤメ、アノ人の着物が私より綺麗だからヤメ、下駄が古いからみっともないのでヤメ。最も有力なのは暇がないからヤメというのであるが、芝居へもダンスへも活動へも行く、三越やら美容館へ行けば暇そうな女がうぢっている。

 脳髄の美を忘れて顔面の美を保持することに全力を注ぎ、愛を把握するため目立って男性をチャミングする装身具を必要とする。女性の弊風として他力本位で稲妻のごときはかない流行を追う。それは必然的に経済の欠陥をともなう。その欠陥を補うがための努力は恐ろしい結果を招き、最後の手段として恋愛を経済化して

無風地帯に入る

ことを考えつく。家庭婦人より優越した社会眼をそなえている職業婦人でさえ、結婚を急ぐほうが利益であると焦るに至る。それは婦人の職業範囲が男子より狭く、かつ高等ならざるに起因する。



注1:能の『翁』における舞のひとつ(あるいはその役柄を指す)。五穀豊穣を祈る/祝う舞である。歌舞伎や浄瑠璃、芝居など多様な芸能に影響を及ぼしており、いずれも祝言の舞として知られる。もちろん兼子は皮肉として表現している。






「職業婦人」として話題になっていたバスガール



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