花束書房

幕末→大正期の女性史マガジン■北村兼子研究(復刊)■編集・出版業(準備中)。

【Badass ばあさん列伝3】 渋沢栄一を「お前さん」と呼んだ歌舞伎町の女王


東京きっての歓楽街、新宿歌舞伎町。

かつては閑散とした湿地帯だったここが市街地に発展する基礎を築いたのは、

ひとりの女性でした。

明治・大正期、腕一本で家業を盛り立て、銀行まで設立した峯島喜代(みねしま きよ)という傑物です。


*浜町の名物婆さん、銀行を設立

喜代が、江戸で代々、質屋「尾張屋」をいとなむ峯島家に生まれたのは天保3年(1833)のこと。いわゆる幕末の志士と同世代です。上には姉がいて、姉妹とも婿を迎えますが、喜代が43歳のときに5代目として家業を継ぐことになります。明治9(1876)年に喜代の夫・茂兵衛が死去し、姉もすでに他界していたためです。

現在も不動産業として続いている同家の言い伝えや、明治・大正期の立志伝のたぐいによると、喜代はきわめて勝気な性格で、商売向きの才気にあふれた人だったようです。早くも継いだ翌年から、尾張屋を不動産・金融業として再出発させ、巨万の富を築いたのです。

喜代は、西南戦争(明治10年)で暴落した公債に目をつけ、大量購入。これが当たり、急騰した公債をまとめて売り払うと、東京の土地を買い集めていきます。神田小川町、鳥越町、蠣殻町、淀橋町、そして浜町(どこも今でも一等地ばかり)。最後の浜町が現在の歌舞伎町です。喜代が買い集めた土地は、郡部まで合わせるとじつに20万坪にものぼりました。


明治33(1900)年には尾張屋銀行を設立。大正11年刊『大正成功譚』によると、当時は「日本で三人の女銀行経営者」として知られていたらしい(ほかのふたりは妹尾商業銀行の妹尾きん子と京和銀行の木村ゆう子)。

同書では、当時89歳の喜代のことは次のような表現で紹介されています。――「歳を食うごとにますますもって気焔鋭くなっていった」「数百万円の大富限者となり、(中略)婆さんは全部の実権を握っている」

表向きは養子の茂兵衛が継いだものの、喜代が院政をしき、なにかトラブルがあれば判断をくだす。老いても日々、粗末な着物とすり減った下駄をはいて電車を乗り降りしては家業の見回りに余念がない。その姿は、伝記記者たちがうらやむほどの老健かくしゃくぶりだったようです。


*女子教育にモノ申し、女学校を設立

大正7(1917)年、喜代は東京府に50万もの大金を寄付。当時、病床にあった喜代は家族を枕元に呼ぶと、寄付金で実際の生活に役立つ女学校を作るよう申し出てほしいと頼みました。子孫の言い伝えによれば、喜代は良妻賢母教育は理詰めで役に立たないとし、もっと家政に役立つ女学校を、と話したそうです。

喜代の願いは実現し、翌年、浜町(現・歌舞伎町)に第5高等女学校(現・都立富士高校)が設立されました。やがて学校の周辺は山の手的な住宅街になっていき、大臣や軍人の邸宅も増えて発展していきました。昭和7(1932)年に淀橋区に編入されると、さらに市街化が進みます。

ここは江戸時代、肥前・大村藩の屋敷がある以外は荒涼とした湿地帯で、窪地でした。明治以降は鴨場として使われるようになり、末頃に浄水場が建てられたものの、依然として閑散としていました。喜代が女学校を建てさせたことで、人の住む活気ある街に発展したのです。

峯島家には喜代の銅像があるそうで、その銘を揮ごうしたのは次の一万円札になる渋沢栄一。喜代は、渋沢を「お前さん」と呼ぶただひとりの人だったといいます。





大正時代の評判女番付。朝ドラでおなじみになった広岡浅子が西の横綱、喜代が東の横綱に。商家に生まれ銀行と女子学校を設立したという共通点があります

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