花束書房

幕末→大正期の女性史マガジン■北村兼子研究(復刊)■編集・出版業(準備中)。

【北村兼子絶筆】「国際婦人運動の大勢」前編


★大正~昭和初頭、ジャーナリストとして活躍した北村兼子の文章抜粋です(講演原稿@読売講堂)。昭和6(1931)年刊『大空に飛ぶ』(改善社)に所収。同書は兼子の死後、父・北村佳逸により編まれた。

★関西大学法学部に唯一の女子学生として在学中からすぐれた才知が評判となり、大阪朝日新聞記者にスカウトされ入社。和漢の教養に加えてドイツ法学、英語・ドイツ語……と幅広い知と鋭い批評眼を武器に、ジャーナリストとしての才能を開花させていく。

★同じころ、司法科および行政科の高等試験に出願するも、女子ゆえ受験資格がおりなかった。全国女子学生連盟演説会にて教育の男女均等を訴えるなど、在学中からフェミニストとしても言論活動を開始。

★入社から2年。他紙に兼子の性的ねつ造記事が載るようになり、退社に追い込まれる。兼子はセクシャルハラスメントへの怒りを、同名のレコード・著作にて発信した。

★その後も言論活動を続け、昭和3年には万国婦人参政権大会(ベルリン)に参加するなど、世界の前線に刺激を受けつつ運動に奔走。ベルリンでは英語・ドイツ語で演説を行い、直後に議長から握手を求められるほど会場をわかせた。後日、大会から浜口雄幸首相あてに、婦人参政権を付与するよう勧告する書簡が届いている。

★国際人として活躍するなかで、世界を席巻していた飛行機に夢中に。欧州からの帰途、予約していたツェッペリンへの搭乗を朝日・毎日の男性記者に妨害されたこともあり、自力で乗ってやろうと立川の飛行学校に入学(昭和5年)。4か月で単独飛行が可能になり飛行士免許を取得したが、欧州への単独飛行を目前にした昭和6年7月、急病により27歳で死去。

★宿願だった政治参加の機運が高まるなかでの急逝でもあり、本稿は終始、燃え立つような高揚感、焦燥感に包まれている。なお、『大空に飛ぶ』収録の数本の論考は逝去1か月前に書かれたもので、1篇は死後、枕の下から見つかったという。

***************

 世界における婦人活躍の大勢から考えてみますれば日本でもここ三年と期限を切って婦人参政は必ず実現せられるという確信があります。地球を包むこの大潮流は日本だけをよけて通るものではありません。けれどもじっとしていては時機がおくれるから完全に人間権を獲得するまでは私たちは戦いぬかねばなりません。

 いま婦人運動の列は寂しい墓場を通っているのですが、私たちはそこで葬られるのではなくして、やがて向こうにみえる自由の国に行進しているのであります。わが国では婦人の政治結社は許されてはいませんが、婦人の個々の心と心とが結びつけられ、会員名簿にのらない暗黙の結社が十分に準備されている。ただ法令の改廃だけが残っているのみであります。もう点火すればいつでも燃え上がるだけの薪は積まれているのであります。

 欧州大戦は無茶に破壊した以外に何の意義をも人類の上に持ってこなかった。その荒廃した欧州の焼け土の上で万国婦人参政権大会(※注1)が開かれました。私たちはこの焼け跡からせめてもの拾いものをしたのは、政治が全権独裁から大衆世論に変化したことでございます。これが三百億の金と二百万の生命とで購(あがな)った遺産であります。この遺産のなかには婦人参政を含んでいることももちろんであります。戦争によって仮死状態に落ちていた良心が覚めてきたのであります。日本は戦争の禍(わざわい)を被(かぶ)ることが少なかっただけに、婦人参政の福(さいわい)を蒙(こうむ)ることも少なかったのであります。

注1:昭和4(1929)年、ベルリンで開催された第11回大会。兼子は英語で1回、ドイツ語で2回演説を行った。さらに、各国代表者とともに平和示威運動に参加し、ラジオで放送演説も行う。欧州を歴訪したのちに渡米し、さらに見聞をひろげた。


 家庭は婦人の舞台として狭すぎるばかりではなく、こんにちの家庭は社会と切り離せない関係にありまするがゆえに、社会と家庭とは同時に改めてかからねばなりません。私たちが将来の婦人に遺産として残しておこうとするものは、婦人参政権以上に適当したものはないと信じるのであります。(中略)

 男女平等観念を基礎として政治、法律、職業、社会に婦人を平等に参加させる時代が、いやおうなしに海の向こうから押し寄せてくる。現代のペルリは婦人参政権を黒船に乗せて開放を迫っております。鎖国国粋主義のつんぼうは浦賀の砲声が聞こえないのです。時代を解しない頑固な男性は、そのチョン髷を切られ大小を取りあげられるまで気がつかないのであります。(中略)

 イギリスでは女大臣を出し、アメリカでも軍縮会議に婦人委員をたくさんに出しております。今度の国際会議には各国ともこれまでに類例のない婦人委員を出しました。(中略)

 もう気運は熟しているのであります。気運は見えなくとも酸素のように空中に広がって、私たちを包んでいるのであります。呼吸しながら肺病人の外は気がつかないのであります。婦人勃興の勢いは炎であります。それを抑圧しようとする手はきっと火傷するということだけは、念のために頑固なお方のために言い足しておきます。(中略)

 男子専制制度を撤廃して婦人に参政権を許したら、家庭は引っくり返り、子どもは漸次に棄てられ、国家は危うくなるというような「おどし」を婦人に吹きこむことをもって思想善導屋の副業としているものがあります。婦人参政権を危険だと思っているその頭が危険千万であります。

 私たちの解放を叫ぶのは社会の習慣を無視して勝手気ままな振る舞いをしたいというのではない。私たちは社会の秩序を尊重する。(中略)私たちは自ら作った社会、法律、道徳、風俗によって束縛されたいのであります。これが純真な婦人運動のいうところの解放であります。(中略)

 裏だなのおかみさんから、農村の娘さんから、貴夫人も深層の淑女も、村を離れたことのない山奥の原始的の樵婦も、ミスもミセスも女工も女官吏も女給も、あらゆる階級の人を婦人運動のなかに網羅したい。上流婦人の定見なきお方よりも、近ごろ風紀問題で排斥せられている女給やダンサーの間から、私たちの強い味方を見出すことが多いのであります。(中略)

 婦人の権益はただ家庭内に限られているように偏見づけられてしまっているから、頑固な人たちに婦人運動の根本義を理解していただくに骨が折れる。男性だけなら無理解も不思議ではないが、女性の仲間にさえ婦人運動の了解を得ることが困難であるというのは、二世紀も三世紀にもわたって虐げられてきたものは自身の悲しむべき運命をあきらめているからであります。


 男性の現存勢力を維持する便宜のために、学者、教育家、政治家、法律家、宗教家たちが自身によく知りぬいた意見と反対のことを発表して、婦人を台所の隅へ押し込んだ形跡がありありと見えます。婦人の脳味噌が男より軽いから、重いほうが軽いほうを支配するのが当たり前だと(※注3)、まるでお薩をチギに掛けたようなことを言い出した科学者もあります。(中略)

注3:当時は学者によるこのような言説がまかり通っていた。

 

 肉体が男より弱い、脳の重みが男より軽いといったような、生理的の考えをもってそれを政治に利用して参政権を拒むというのはおかしい。(中略)野蛮民族は男女の脳量が同じことだから、野蛮国へでも行ってその科学を振りまわしていただきたいのです。私たちはその科学なんぞはまっぴらです。

 婦人界から天才が出なかったのは、婦人教育において婦人を男性の隷属として訓練したからであって、永く訓練されたものほど――換言すれば、教育の程度が高ければ高いほど完全に奴隷化してしまっています。よく馴らされ、よく教え込まれた犬は犬の本性を失って、人間の手先となってはじめてその知力を働かせます。婦人教育は犬の訓練でありました。(中略)

 婦人には女の仕事として割りの悪いことばかりを負担させられ、これに報いる何の権利もありません。教養のある男性のかたですら因襲が久しきにわたって、この差別が天から男女に割りつけられた人間の条件のように思っている人もあります。(中略)

 暴主人に対する奴隷の忠義と、圧迫者である乱暴な夫に対する妻の貞節。もしそんなものがあるならば、そんな悲しい忠義とと貞節とは人間界に存在させていいものでしょうか。




昭和3(1928)年、政治部委員として第1回汎太平洋婦人会議@ホノルルに参加。市川房江ら同行した面々。兼子は写っていないっぽい?

花束書房

幕末→大正期の女性史マガジン■北村兼子研究(復刊)■編集・出版業(準備中)。

0コメント

  • 1000 / 1000