花束書房

幕末→大正期の女性史マガジン■北村兼子研究(復刊)■編集・出版業(準備中)。

Badassばあさん列伝4 ひとり天狗党-黒沢とき

*旅をしてブレイクスルー
 
庶民の旅が一般的になった幕末期。当時の旅日記をひもとくと、女性が自身の意思で旅した件数は全体の78%。自分の意志でない旅は22%だった。(柴桂子『近世女性の旅日記から―旅する女性たちの姿を追って―』)

前者の内訳をみると、
*参詣など物見遊山:77件
*文芸・学問・宗教などの修行:11件
*帰国・墓参りなど:18件
*湯治:6件
*政治活動:7件
 
となっている。最後の「政治活動」がいかにも幕末っぽいが、主体が女性だとやはり珍しく、件数が少ない(not実数)。
当時、政治活動に何らかの形で深くかかわった女性たちはほとんどが脱藩している。彼女たちは政治の中心地である上方で工作に関わった。それ以外はいわばパトロン型で、物心両面で志士たちをサポートする。例外もいて、信州・下伊那のbadass grandma松尾多勢子(豪農女性)はこの両方にあたる。多勢子は50を過ぎて上洛し、政治的活動とともに和歌の表現活動に大忙しだった。
政治活動にかかわった幕末の女性たちはみな、有力な公家や志士と家族あるいは恋人になるなどなんらかの結びつきをもっていた。補佐的ではあったが、支配的ジェンダーのなかでときに越境しながら活動し、ある種のの自己解放を体験していた。
 
幕末、志士たちと交流して尊王攘夷運動に奔走した松尾多勢子、野村望東尼、奥村五百子、村岡局(津崎矩子)らは、のちに「勤王女傑」と明治政府に称賛されている。
彼女たちはみな中高年に達しており、自分の意志で旅をした人の年齢は圧倒的に50代が多い(10代・20代の物見遊山はほとんどいない)。家庭での勤めを終えたうえで脱藩して上洛したからだ。年齢を重ね、自分で使える現金を持ってさえいれば、女性でも家を出て移動できたということだ。その意味では、幕末維新期は女性たちにとって流動的かつ開かれた時代だった。

ジェンダー視点をもった多勢子の伝記は、今では維新史研究における画期的な著作になっている。
それに、和歌や漢詩の世界では、男女差の垣根が低かった。無名に近い個人にフォーカスすると、これまでとは別の維新史が見えてくるはずだ。
 

*殿様の侮辱は許さないッ!
 常陸国錫高野村(現・茨城県)の修験者の娘、黒沢ときも、54歳にして政治活動のため京都へ旅立った。前水戸藩主・徳川斉昭が安政の大獄によって永蟄居の処分を受けたことに憤ったときは、斉昭の無実を訴えようと思い立つ。そこで、嘆願の長歌をしたため、朝廷に献上することにした。懐は貧しかったが勢いあまって女手形も持たずに飛び出した忍び旅は、こうして始まった。
ときの旅日記には、道中のことが鮮やかに記されている。桑原宿の旅籠では、女将から、武者修行に出た夫がいない間、3人の娘を育て上げた苦労話を聞いた。ときも若くして夫と死別し、行商や寺子屋師匠などをして2人の娘と老母を養ってきたから、「女同士、世の浮き事」をおしゃべりして盛り上がった。

ときは幼い頃から、修験道場と私塾を経営していた祖父に国学と漢学を学んできた。これが、夫亡きあとの生活の助けとなった。娘を育てるために始めた行商では道中、歌会や句会に出席するようになり、世界が広がって弟子も持つまでになった。早い時期に身に着けた基礎学問が、好奇心を育てたのだろう。

ときのように、女性ながら漢学も学んだり、政治的役割を果たさなくても積極的に関わっていったりした例はあったのだ。幕末維新期の女性史は進んでいないないから、埋もれているだけで似たような女性はまだまだいるはずだ。

さて、上洛したときは朝廷の座田右兵衛に長歌を託すが、大坂で捕らえられ、江戸の伝馬町牢屋敷へ送られてしまう。ときがお縄となった理由は次のように伝えられている。

・抜け道を利用した女性の旅も増えていたとはいえ、東国からの女一人旅がまだ珍しかった
・公家出身だった斉昭の妻からの密使だと疑われた
長歌があまりに優れていたため、ほかの誰か(=貴人)が作ったのではないかと疑われた
 
2番目と3番目はひとつにしてもいいかもしれない。目の前の老婆がこんな立派な歌を作るわけがない、と侮られたということだ。政治的な意図から故郷を飛び出し京都まで行く高齢女性が少数派だったので、まあ無理もない。
 
*女性小学校教師のさきがけに
桜田門外にて井伊直弼が暗殺されると幕府の威信もおとろえ、減刑されたときは故郷での寺子屋の再開も許されるようになった。ときは旅へ出る少し前、生家の寺子屋を継いでいた。
明治5年、学制が発布されると、村で請われて自宅を小学校として開放し、引き続き教えた。このとき68歳。日本の女性では初めての小学校教師だった。ときは85歳で世を去るまで教師を続けたという。
 
江戸後期には女性の自立意識もめばえ、商業や画業、三味線、寺子屋の師匠などで自立する人も目立ちはじめていた。大奥や大名家の女中にもなるとれっきとした「職業婦人」で、老女ともなると一家を興すこともできたほどだ。
こうした時代、すでに自立して一家の長としてバリバリやっていたときが、政治的主張のために京都まで行ったのは、考えようによっては自然なことなのかもしれない。なにしろ、行商時代も、道中でよい文学の同志や先生を見つけると機を逃さずに教えを請い、見聞を広げ、表現力を磨いてきた人だ。
『女大学』『女訓話』(儒教的な女性の徳目を説いた教本)では学びえない、生きた知恵と表現力を得たときは、真に強い女性になったに違いない。貞女は旅に役立たない。
 
ちなみに、同時代の篠田雲鳳という女性の漢詩人は、東京開拓使仮学校で和漢学の教師を5年間勤め上げ、その後は私塾を経営したという(宮地正人『明治維新の人物像』)。こういう人がもっと知られるようになるといいなと思います。
 
 

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