花束書房

幕末→大正期の女性史マガジン■北村兼子研究(復刊)■編集・出版業(準備中)。

男女平等を実践しつづけた公立学校初の女性校長・木内キャウ

昭和3年、(北村兼子が参加した)汎太平洋婦人会議に教育家の代表として出席した木内キャウを紹介します。
戦前の日本で、教職員と言えば、既婚・母親であっても働き続けられる数少ない職業でした。とはいえ、昇給するのは男性教員のみという「常識」がまかり通るなど男女格差は大きく、5万人もの女性教員が差別に甘んじている状態。そこで女教員会を結成し、女性の校長を出さねば…!!と運動したのが木内キャウでした。女性教員のため、そして児童のために生涯、男女平等を掲げて生きた人です。


✳︎強烈な自立スピリット
明治17(1884)年、東京に生まれたキャウの頑固一徹、熱い人柄を形成したのが、清貧仙人みたいな父・淡島寒月と、「頼りになるのは我が身ひとつだよッ!!」と説きつづけた母ナルのもとで育った少女時代でした。
淡島寒月は著名な江戸文学研究者にして画家。「芸術を冒涜したくない」からと頑として作品を売らなかったので、一家は資産(江戸から続く豪商でした)を切り売りして生活し、キャウはいつしか自立志向を育てていきます。
父の反対を押し切って勝手に学校に通いはじめると、飛び級で卒業。自立のため裁縫塾などにも通い、縁談も断りまくって自活のため教師を目指すように。校長小学校長のすすめで女子師範学校を出て小学校の教師になりました。ところが26歳の時、中学校教師の木内辰三郎と結婚します。辰三郎は父の教え子でした。
このとき「教育のためには家庭を犠牲にするかもしれないがそれでもよいか」と言ったのは、キャウのほうだったというから奮っています。夫は「いいとも」と答える、うってつけのパートナー。キャウは「私の夫はむしろ教育かもしれないんだが…それでもよいか」と念を押したといいます。
 
「東京府の市内にも女性の学校長を」との機が熟したのは大正末年のこと。キャウは恩師のすすめで校長になるべく専攻科(女子師範学校)に入学。43歳になっていました。
 
↑群ようこさんがキャウの評伝を書いています。
✳︎「女を校長によこすなんて馬鹿にしてらァ」「カカァ天下になっちまわァ」
OECDの2013年調査によれば、同加盟国31か国の中学校校長のうち、女性が占める割合がもっとも高いのはロシア(77.8%)で、日本は最下位(6.0%)。状況は女性教員が多い小学校でもさほど変わりません。「上へ行くほど男が占める」「意思決定権は男」は教育現場でも「常識」になってしまっています。
キャウの時代はなおさらのこと。公立学校初の女性校長に赴任することがきまったとき、地元(北豊島郡・現在の板橋区)の男性医師たちによる反対運動が事前に耳に入ってきました。「女校長をよこすなんて馬鹿にしてる」「カカァ天下になる」といったものでしたが、キャウはとにかく初日に住民たちの声を虚心坦懐に聞こうと決め、現地の志村第一小学校へ。すると、
「全国数万の女教師のなかからただひとりの女性校長がここで誕生するのだから、むしろ光栄とすべき」
「木内先生を成功させるかはわれわれの腹づもりひとつ」
といった意見があがり、キャウは割れんばかりの拍手で迎えられたのでした。
キャウの同志で女医の吉岡弥生が、反対派の医師たちに「社会で指導的地位にある医師は、女性に新しい道を譲ってあげてほしい」と説得し、医師たちを欠席させたのです。

さて、校長に赴任したキャウはさっそく、信条である男女共学、学校給食という先進的な教育をバリバリ進めて行きます。

「社会には男と女がいて、両性が平等に生き、同じ責任で生活していくのが理想。学校でそれができないのは教師失格である」との考えを一歩も譲らなかったからでした。
(ちなみに、教え子に渥美清がいました)
 
当時、「校長としていま最も望むものは?」と聞かれたキャウは「参政権」と答えています。それほど戦前の女性教員の地位は低く、またキャウが指導者として向き合った障害も多かったということでしょう。そして、校長就任の3年前に参加した汎太平洋婦人会議の影響も。

戦前の教育現場では、今以上に後援会や地元有力者、村会議員…つまり「土地の男社会」の力が強大。男の校長であれば「あの件、ひとつ頼むよ」などと会合の場で添えるだけで済む件も、キャウはゼロから話を詰めねばならず、比較にならないほどほねがおれるのでした。女ならではのそうした苦労の日々を、のちに「江戸の仇を長崎で討たれることもあった」と振り返っています。

 
しかし、校長だからこそ実践できることも多く、貧しい子を集めて給食を食べさせ、虐待にあったり捨てられたりした子に教育を受けさせることには命がけでのぞみました。

後年、校長をやめてからは夫とともに幼稚園を設立。「働く母親の幼児を心身ともに健やかに育てる」と設立趣意書にししたためました。ここでも給食を出し、延長保育をするなど、やはり進んだ教育理念がいきていました(この幼稚園は現存しています)。
 
昭和39(1964)年、80歳で死ぬころには「女校長なんか珍しくもないという時代が一日も早く日本にやってくることを望んでやみません」との言葉を残しています…。
 

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